偶然_公理主義



まったくもって門外漢だけど、数学の公理主義というのは素人から見てもやはりおもしろそうだ。


専門的に数学を学ばない私のような者にとっては、「1(数)」は一個のことであったり、量の単位だったりなにかしら目に見え、「ある」(存在する)物として認識される何かと関連付けされ、イメージされるものだ。
そして演算はその「ある」物が移動したり、積まれたり、実際に起こっていると認識される何らかの現象になぞられてイメージされている。
現象を抽象して一般化していることには変わりないが、常に認識される現実的対象に関連付けられている。
だからそれが有用であることも容易に期待される。


(ある条件さえ守っていれば)どのように公理を定めるか限定が無い、演算も定義できる、としたならば「なんでもあり」にしか見えないし、単に恣意的なものにすぎないようにも思える。
しかも、なんらかの(認識される)存在や現象とも関連付ける必要が無いならば、一体そこに何の意味があるのかとさえ思える。
ただ論理を弄んでいるようにも見える。
実際にそれが純粋に数学に対する情熱や興味によって生み出された公理であればあるほど、その公理には何の有用性も感じられないものもあるのだと思う。
人によって創造される公理系は私には何かしら、高度に抽象化された芸術のようなものをイメージさせる。
必ずしも有用性を期待しないところなどはなおさらそのような気配を感じる。
数学でありながら、むしろ何の有用性も期待できないものの「表現」に情熱を燃やす人の情念(人間臭さ)のようなものさえ感じる。


実際には、現実とかけ離れた最近の「行き過ぎた」公理主義を批判する人もいると聞く。
でも、やはり興味深い。


おそらく、人が持っている認識の様式は「偶然」今のように発展してきたのだと思う。
つまり、過去のある時期に少しでも「世界を別の見方」で捕らえていたならば、その後の認識の発展の仕方も、積み上げ方も違っていただろうし、私たちが見ている世界は(まったく同じ現象を見ているにもかかわらず)まったく別のものに見えているに違いない。
ある偶然が一つの「捉え方」を生み、その生み出された「捉え方」を足がかりにまた新たな「捉え方」を生み、それがまた・・・・
バタフライ効果のように、過去の小さな偶然が今をまったく別の世界に仕立て上げていたに違いない。


数の捕らえ方も、数の数え方もまったく違ったものになっていたのかもしれない。
場合によっては探求する方向性(興味)もまったく今と違ったものになっているかもしれない。



論理はどうだろうか。
公理主義ではこの点にだけは絶対的な信頼を置いているように私には見える。
もしかすると本当に唯一論理そのものは同じ(普遍)なのかもしれない。
人が偶然によらず知性的な生き物だとしたら論理は変わらない(普遍的である)可能性はあるとも思う。(というよりも何の意味も存在し得ない世界(あるがまま)を人の世界観だと想定することができない。)


より劇的に違う世界の可能性を想定することはできるかもしれないが、より限定的に、シビアに、「論理は人を特徴付ける重要な必要条件」のように考えても公理主義によって見出される「世界の広がり(可能性)」は魅力的過ぎる。


具体的な「物」や「現象」に囚われない「より抽象的」で「より純粋」な論理の姿を追求しようとする営み。
それは、その営みが探求する営みであるにもかかわらず、世界のあり方に対して、現在の「その捉え方」がいかに「囚われているか」「境界により制約されているか」を抉り出す契機をも秘めてるように思えてくる。


今の私たちにとっては何の意味も見出せない公理系が逆に世界を説明するのに重要な意味を持ち、私たちが現在意味があると思っている公理系がまったく意味の無いものとして認識される世界が存在していた可能性(あるいは今後出現する可能性)を垣間見せてくれる。


実際にこれまでの公理系では予想すらつかなかった現象を新たな別の公理系では見事に予測を立てることができ、より世界を上手に説明できたという経験をすでに人はしている。(近代の出来事なので劇的ではないがこのような事がごくごく初期に起きていたならばきっと現在に劇的な乖離を現在に生み出すことになったであろう)


今は無意味に見える「公理系」は「今は持ち得ない認識の可能性」であるのかも知れず、新たな「認識系」を生み出す「契機」なのかもしれない。

あるがままに



私自身が「あるがままに」に直面したとき
「あるがまま」の「ある」とは一体「いかようにあるのか?」と疑問に思い
それを問えば
「分からない。」
とか、
「たぶん〜だろう」
とか
場合によっては
「〜である」
なんて答え方になるのかもしれない。
そして、それが問いである以上、〜は具体的であることが期待される。


私なんかだと
「これはたぶんこうなんだろうけど、そこから先は分からない」
なんてところに落ち着く。


「問うている」時点でこれは理性なんだろうと思うし、たとえそれがもともと「あるがまま」だとしても、言葉となった瞬間にそれはあるがままでも何でもなくなるのだと思う。(←これも「あるがまま」に関してまったく説明などにはならない)
何かにこだわっているから「問い」や「答え」になる。(価値、評価、主観が混じってしまう)
「あるがまま」を悟ることができなくても、少なくともこだわりのある所に「あるがまま」があるとは予感できない。


けれど、「問わない」ことを想像して
「いかようにあるのかにかかわらずある。」
な境地を予感はできる。


そのような境地を認識することはできないが、想像することだけはできる。


これを
「いかようにあるのかにかかわらずあるのだ」と言葉にし答えられるようでは、それは「ありのまま」ではないだろうし、その境地ではないだろうということも予感される。


おそらく、もしそのような境地にある者がいたならば、私から見ればまったく的外れな「いかよう」に出会おうとも、全く気にせずに「いかにも」とこたえるだろう。
たとえば「あるがままにとは執着である」とか「あるがままとは人為である」とか「あるがままとはパソコンのこと」とか・・・・どのようなあるがままにに出会おうとも「いかにも」と答えるのだろう。
禅問答などもそういうものなのかなとは予感する。
「あるがままにとはこれいかに」「あるがままにとはパソコンである」なんてことになりそうだ。


答えの具体的な内容などどうでもいい。
言葉を使ったやり取りだが、それは必須ではない。
ただそのやり取りでピンとくればいい。
そのピンと来たものを
「お師匠、わかりました、あるがままにとはいかようにあるかのにかかわらずということなんですね」
(単に「わかりました」でもいいけど)
なんて答えればバシッと肩に来そうだ。
たとえピンと来ても、黙って頭を下げることぐらいしかできないだろう。


それは客観的なものとして顕在化させそれを介在して共有が行われたなどというものではないが、より適切で、よりそのまま、それ以外にあり得ないあり方で伝えられる。(もちろん、言葉に表されたこれもそういうものではないと予感する)


これはHowToじゃないから、そのように答えること自体はまるで重要じゃない。


予感した刹那に発生し、言葉にした瞬間に消え去る。


もしかすると、「理性」が「ひらめき」に一瞬遅れをとっているその一瞬間には「あるがまま」があるのかもしれない。


とずらずらと書いてきたが、くどいようだがこのようなことを書いている時点で「ありのまま」はここにはない。
ただ私の中でピンと来た瞬間に予感することをただ繰り返すだけで、客観的なものとして提出することもできない。


有用かどうかを前提にすれば語ることはできる。がそれは私の個人の価値として表明できるにすぎない。
予感を「信じる」ことはできる。がそれは私の中で持ち続けることができるにすぎない。


だからこそ凡庸な人である私が「ありのまま」に直面すると、そのことに関して表現したくなり、そしてしようとするから
「これはたぶんこうなんだろうけど、そこから先は分からない」
となる。
理性で語ることになってしまい、ただ、「至らない」ことのみが確認されるだけだ。


でもこれは、どんなに言葉やその理路が厳密でもそれとは関係なしに、ピンときてストンとくること無しに「分かる」「伝わる」ということもないだろうと思う。
そして、そのことを誰しも「ありのままの世界」で日々経験してはいないか?

精神力とか

(マクロ的)環境というものは常に変化はするけれど、それがマクロであるがゆえに一朝一夕には変えられない。
その環境というのは、たとえば「法」であったり「ルール」であったり「慣習」であったり、あるいは「惰性」だったりするかもしれない。
その環境に対して多くの人が「是」と感じていることもあれば、少なからずの人が「非」と感じていることもあるだろうが「現在」を「現実」として規定し多くの人の観念の中に君臨している。
それが法であったりルールであったりしたならばもしかするとその環境は「理性」の賜物かもしれない。
「成り立ち」や「是非」はいろいろあるだろうけれど、そのような(マクロ的)環境は様々な形で(ミクロ的)人に影響を与える。
そして、その影響は(ミクロ的)人にとって様々な「不合理」として現れる。


どんなに多くの人がその環境を是と感じていようと、それを「是」とは感じない人もいれば、環境の多面性ゆえに当初「是」と感じた多くの人にさえ同じその環境が、あるときには「非」として感じられることもある。
最近の例で言えば「アメリカ式グローバル市場経済」という環境を是と感じていない人もいたし、当初は是と感じた多くの人が、そのシステムの持つ不具合に直面し非として再認識することもあるように。


誰もがそのような環境(不合理)にさらされながら生きている。(マクロとミクロのギャップにさらされながら生きている)


そして、様々な人に様々な「不合理」をもたらすその「環境」が一朝一夕には変わらないというのである。


このような中で生きていくためには、それがたとえ「不合理」と感じられようとも何らかの対処をしなければ生きてはいけない。
それは人にとってまったくもって「切実」なことなのである。
そんなときに耐性とか、適応力とか、受容力とか(知識ではなく)知恵とかといった「生きていく力」がどうしても必要になるのだと思う。
個別に現れる非常に個人的な性質なので一般論は参考にはなっても結局のところ個人に行き着いてしまう。
人というのは不思議なものでどんなに環境を整えても「一歩外に出る」という、普通の人にとっては簡単なことでも「できない」と思えばできない。
テーブルの上にあるリンゴでさえ「とれない」と思えば手に取れなくなってしまう。
知識がなくてできないのではなく、物理的にできないのでもなく、精神的にできなくなる。
そして、本人にとっては間違いなく「切実」な「問題」なのである。
このような「できない」を一般化することはおそらく困難であろう。
様々な小さな困難を経験したり、より多くの関係性を経験したりして生きる力を身につけることは生きていくためにはやはり必要なのだと思う。(よくウェブ上で見られるスルー力もその一つかもしれない)
これをなんと呼んでもかまわないが「精神力」と言い換えても別段かまわないとも思う。
私自身はそのようなものは「ある」と思っているし、身につけたいとも思っている。


もしかすると、「ある」と思うこと自体を「精神主義」と採られる事もあるかもしれないが、私は一般化できないはずの「精神力」といったものを合理性ゆえに一般化してしまったものが「精神主義」なのではないかと思っている。
一般化され、それが「主義」となってしまえば、マクロ的、システム的な様相を纏ってしまい、ミクロに「不合理」をもたらす他の「環境」(マクロ的なもの)と区別がつかなくなる。
精神主義」はミクロな困難を救うどころか、逆にミクロに困難をもたらしかねないと思う。


この精神力は個別的であり、ごくごく身近であり、多様で、偶発的で、未知の領域のものなのだと思う。
あたかも「明らか」かのように扱うべきものではないのだと思う。
「明らか」でないから捨象するのではなく、「明らか」でないから「猶予」するものなのだと思う。
「明らか」にしなければいけないと思うから「精神主義」が現れるのではないだろうか?


とはいってもミクロは「切実」であると言ってもそれはやはりミクロであり、一方のマクロはマクロであり続ける。
ミクロで有効な「生きていく力」だけに注目していては、マクロの暴走を招きかねない。
マクロの暴走を放置すればミクロは「生きていく力」だけではどうにもならなくなる。
あくまでこれは「公私」で言えば「私」であり、「情と理」で言えば「情」であり、緊急避難であり、短期的であり、ゆえにミクロである。


やはりミクロに対処しつつも、同時に最適なマクロを、理で模索しなければならないと思う。
おそらく論理的(形式的)に言葉にすればミクロの主張とマクロの主張は矛盾する。
でも互いの関係性からみれば一体のものなのだと思う。

停戦合意

イスラエルハマスの間で、何とか停戦合意に至りそうだとのことでとりあえずは良かった。


しかし、中東の火種、パレスチナ情勢は変わらない。
いや、次の対立に向け、むしろ新たな怨嗟のエネルギーを蓄えたようにも思える。


イスラエルの人々にとって「苦難」は本当に「糧」なのかもしれない、と最近思う。
国際社会からの「非難」、パレスチナやアラブ(異教徒)からの「敵意」を本気で「糧」のように思い、望んでさえいるのではなかろうか?
それがイスラエルイスラエルたらしめているのではないかとさえ思えてくる。


私は信仰を肯定するけど、できる事ならば信仰は(個)人の中に納まっていて欲しい。
個々の人の心を救うミクロなものであって欲しい。
信仰が集まって宗教になり、宗教団体になり、宗教国家になり、マクロに展開すると碌な事がない。
神不在のイデオロギーと変わらない。
マクロに翻弄され、不合理にさらされるミクロな人を救うのが信仰であって欲しい。

ブレとか一貫性とか

補正予算で給付金の問題が焦点になっているが、麻生総理は一貫してこの2兆円の給付金を頑固に主張している。
このような表現をすれば何やら立派に聞こえるけども、一体何に対して一貫性を保とうとしているのだろう。


野党が2兆円の給付金を切り離せば、法案を通すことに前向きであるいっても頑なにそれを拒んでいる。
そういえば、マスメディアが給付金のことばかりクローズアップするので、総理は補正予算案は給付金だけではなく、その他の予算案も含めて総括的に評価してほしいとの事を言っていたが、それならばなおさらのこと切り離してもかまわないだろうと思うのだけども、それじゃ納得しない様子。
理路に「一貫性」を持たせるならそのような結論になるとは思わないのだけど、なんだかよくわからない。


もともと、麻生総理自身が当初描いていた「給付金」の姿は今のようなものではなかったはず。
それを多くの国民は知っている。
思った事をつい口に出してしまう総理の言葉から嫌でも判ってしまう。
一律に給付するなんて事は念頭にはなかったのだ。
ただ、高所得者層と低所得者層を分けることがシステム的に(労力的にも金額的にも)コストがかかり、しかも誰をも納得させる線引きラインを設定することの難しさに直面して右往左往してしまったのである。
そういう当たり前の感覚が、当初から念頭になかったのであろう。
あったとしても「高額所得者が自ら辞退する」なんて事を本気で当てにしていたんだろうな。
それでも、すぐに実施していれば、それなりに効果はあったかもしれないが・・・その機も逸した。


当初に行われた世論調査の与党議員の引用も悪い。
「給付金をもらえたら嬉しいですか」なんて間抜けな設問で〜%の国民が給付金を歓迎している・・・なんて結論付けようとするのだから。
そりゃ貰えれば嬉しいが「でも」が続くのである。
数字にすればいいという頭でっかちが考えそうな「事態の定量化の最悪の例」だ。
前提となる大事な部分を捨象してしまっているのだから。
給付金が国民の支持を得ているという数字を出そうとしてのことだと思うが、なんでこんな見え透いた誘導をしようとするのだろう。


現在における給付金制度案は総理自身も納得してなどいない。
与党議員も納得してなどいない。
専門家による諮問機関も納得していない。
もちろん国民も野党も納得していない。
ただただ、首相や政権与党の「形式上の言葉の経緯の整合性」を保つためだけに行われている。
ここに見られる「後に引けない」構図は破滅に向かった戦中の指導者の思考形態を想起させる。
後手に回り、つじつまあわせのために事態を悪化させていく。


前回のエントリーの「誰も望まない望ましさ」であり、それを「頑固」に貫き通している姿は道化を思わせる。


総理・与党が保とうとしている「一貫性」は「メンツ」。
至極「私的」「プライベート」「ミクロ」なもの。
「公」を担い、マクロを見据えるべき総理がとるべき「一貫性」とはそのようなものではないはず。
一般国民のほうがよっぽど「私」を控えて「公」を憂い、切実な「ミクロ」に耐え「マクロ」に向き合っているのではないか。

誰も望まない望ましさ

雰囲気というのは変わるものだなぁとつくずく思う。


アメリカ主導の経済至上主義といったらいいか、アメリカ式グローバル市場経済といったらいいか、新自由主義というか・・・いずれにしても、さまざまに表現されていたこれまでのシステムが金融危機を境に変わり始めている。


論調も変わってきた。


これまでは「現実」として君臨してきたものが、多くの人に懐疑の目で見られるようになりその力を徐々に弱めている。


これを機に「市場原理」というものが終わりを告げるのか?
これは必ずしもそうともいえない。
金融システムのクラッシュは必ずしも誰かの意図により起こったことなどではなく、当然いつかは起こるべき市場の持つ自浄作用の一つだと考えるならば、見事に市場原理が働きバランスを取ろうとしているようにも見える。


しかし、このような作用をも含めて市場原理と呼ぶことを良しとしても、それが多くの犠牲者を作り出し、不安を引き起こし、分断をもたらすものだとしたならば、人にとって望ましいものとは言えないだろう。
それに、クラッシュが起こる前の市場原理主義者が、「クラッシュ」を「市場原理の作用」として予め見込んでいたとは到底思えない。
この世に原理があるとしても、それがいつも人に都合のよい原理であるなどと考えるのは不遜である。
神がいたとしても、その神は人にとって無情に思えることでも「必要ならば」鉄槌を下す事に躊躇はない。
だからこその「原理」であり、「絶対」ということなのだろう。


今後も「市場」という言葉を使うならば、そのときは「クラッシュ」を市場の作用の一つとして見込んだうえで使ったほうがいいのではないだろうか。




ところで、もともと多くの人はこのようなシステムを望んでいたのだろうか?
金融危機発生後の日本の世論の変化を見ると必ずしもそういうわけではなかったのではないかと思う。


このシステムでは極端に富を得るものがいてその数はごく僅かで、それ以外の人々は決してこのシステムの恩恵にあずかるわけではない。
ミクロ的には其々に可能性(ばらつき)はあってもマクロ的にはその確率は決まっている。
かといって、このゲームに参加したくなくともそれは強いられる。
どの立場に自らを重ねあわせて見ているかは別にしても、そのこと自体は誰もが「知っている」ことである。




一所懸命このような「現実」に対応しようとしてもがき、葛藤していた(今もしている)ように私には思える。
けして望ましいわけではないが、それを無視しては経済生活が成り立たない。
望ましくはないのに、それに反して順応しなければいけない状況をそのまま矛盾として抱えているのはつらいものだ。


ミクロ的には、こんなときに「望ましさを行動に移すべきだ」などとマクロ的な正論を突きつけられると反発心も沸き、自らの望みなどには向き合いたくもなくなる。
其々がよって立つ立場というものはそう簡単には無視できるものではない。
その意味で、この「現実」は同時にこの矛盾に無理やりにでも整合性を突けるための「エクスキュース」、「免責」の役割をも担っているのだろう。


しかし、どのような理由があろうとも 疎遠なマクロ的な展望が身近なミクロ的な事情にかき消されて社会が思わぬ方向に加速すれば、その社会から人が疎外されていくことを回避できるわけでもない。




確かに行動を望みに一致させることには美しさがある。
できることならそうしたいものである。
しかし、これらを一致させ矛盾を解消しようとするとき、人は弱いもので、それとは逆に「望み」を「行動」に無理やり一致させようとしたりする。
でもこれは「誰も望んでいない事」や「誰も持ってはいない価値観」があたかも人々の「望み」や「価値観」であるかのように一人歩きさせる事にもなり、望みと行動が一致していないこと以上にマクロ的には性質が悪い。


合理性という面から見れば「整合的」であることは必須なのかも知れない・・・が、合理的であろうとするするあまり「望み」を「行動」に整合性を装ってしまうようならば疑似科学と同様に、擬似合理という本末転倒な事態に陥ってしまうのではなかろうか。


そんなことを考えると、望みというものはたとえ行動が伴わなくとも持ち続けていたり、表明したりしてもいいのではなかと思えてくる。けして積極的な「良し」ではないにしても・・・
そして、大したことはできなくとも、できることはすればいい。
それは「自分のことは棚に上げて」ということにも繋がるが、それを避けるために偽装してまで整合性をつけるよりはいくらかマシだ。
そこに矛盾めいたものがあろうとも、環境に左右されない「望ましさ」(マクロ的なもの)を「公」とし、環境に左右される「行動」(ミクロ的なもの)を「私」とするような「概念」や「ストーリー」で、個々人の中に並存を可能にさせ、それによって「望み」をつなぎ、生きながらえさせることも必要なのではなかろうか?
そのようなことが可能ならば未来もすこしは違ってくる(望ましさに近づく)様に思う。
少なくともマクロとミクロの矛盾に苛まれて自らの存在意義を保つために無理やりミクロに整合性をつけて社会(マクロ)に復讐(破壊)するといった結論を導く頭でっかちも少しは減るのではなかろうか?