精神力とか

(マクロ的)環境というものは常に変化はするけれど、それがマクロであるがゆえに一朝一夕には変えられない。
その環境というのは、たとえば「法」であったり「ルール」であったり「慣習」であったり、あるいは「惰性」だったりするかもしれない。
その環境に対して多くの人が「是」と感じていることもあれば、少なからずの人が「非」と感じていることもあるだろうが「現在」を「現実」として規定し多くの人の観念の中に君臨している。
それが法であったりルールであったりしたならばもしかするとその環境は「理性」の賜物かもしれない。
「成り立ち」や「是非」はいろいろあるだろうけれど、そのような(マクロ的)環境は様々な形で(ミクロ的)人に影響を与える。
そして、その影響は(ミクロ的)人にとって様々な「不合理」として現れる。


どんなに多くの人がその環境を是と感じていようと、それを「是」とは感じない人もいれば、環境の多面性ゆえに当初「是」と感じた多くの人にさえ同じその環境が、あるときには「非」として感じられることもある。
最近の例で言えば「アメリカ式グローバル市場経済」という環境を是と感じていない人もいたし、当初は是と感じた多くの人が、そのシステムの持つ不具合に直面し非として再認識することもあるように。


誰もがそのような環境(不合理)にさらされながら生きている。(マクロとミクロのギャップにさらされながら生きている)


そして、様々な人に様々な「不合理」をもたらすその「環境」が一朝一夕には変わらないというのである。


このような中で生きていくためには、それがたとえ「不合理」と感じられようとも何らかの対処をしなければ生きてはいけない。
それは人にとってまったくもって「切実」なことなのである。
そんなときに耐性とか、適応力とか、受容力とか(知識ではなく)知恵とかといった「生きていく力」がどうしても必要になるのだと思う。
個別に現れる非常に個人的な性質なので一般論は参考にはなっても結局のところ個人に行き着いてしまう。
人というのは不思議なものでどんなに環境を整えても「一歩外に出る」という、普通の人にとっては簡単なことでも「できない」と思えばできない。
テーブルの上にあるリンゴでさえ「とれない」と思えば手に取れなくなってしまう。
知識がなくてできないのではなく、物理的にできないのでもなく、精神的にできなくなる。
そして、本人にとっては間違いなく「切実」な「問題」なのである。
このような「できない」を一般化することはおそらく困難であろう。
様々な小さな困難を経験したり、より多くの関係性を経験したりして生きる力を身につけることは生きていくためにはやはり必要なのだと思う。(よくウェブ上で見られるスルー力もその一つかもしれない)
これをなんと呼んでもかまわないが「精神力」と言い換えても別段かまわないとも思う。
私自身はそのようなものは「ある」と思っているし、身につけたいとも思っている。


もしかすると、「ある」と思うこと自体を「精神主義」と採られる事もあるかもしれないが、私は一般化できないはずの「精神力」といったものを合理性ゆえに一般化してしまったものが「精神主義」なのではないかと思っている。
一般化され、それが「主義」となってしまえば、マクロ的、システム的な様相を纏ってしまい、ミクロに「不合理」をもたらす他の「環境」(マクロ的なもの)と区別がつかなくなる。
精神主義」はミクロな困難を救うどころか、逆にミクロに困難をもたらしかねないと思う。


この精神力は個別的であり、ごくごく身近であり、多様で、偶発的で、未知の領域のものなのだと思う。
あたかも「明らか」かのように扱うべきものではないのだと思う。
「明らか」でないから捨象するのではなく、「明らか」でないから「猶予」するものなのだと思う。
「明らか」にしなければいけないと思うから「精神主義」が現れるのではないだろうか?


とはいってもミクロは「切実」であると言ってもそれはやはりミクロであり、一方のマクロはマクロであり続ける。
ミクロで有効な「生きていく力」だけに注目していては、マクロの暴走を招きかねない。
マクロの暴走を放置すればミクロは「生きていく力」だけではどうにもならなくなる。
あくまでこれは「公私」で言えば「私」であり、「情と理」で言えば「情」であり、緊急避難であり、短期的であり、ゆえにミクロである。


やはりミクロに対処しつつも、同時に最適なマクロを、理で模索しなければならないと思う。
おそらく論理的(形式的)に言葉にすればミクロの主張とマクロの主張は矛盾する。
でも互いの関係性からみれば一体のものなのだと思う。