実際に起こったということ

起こってしまった今は巨大津波原発の電源バックアップも使用済み核燃料の屋内保管プールも既に「想定内の事実」となっている。
だから、現在以降行われる原発事故に関する議論や対策は「想定内」のものとなる。
しかし、これが起こる前、(一部の人たちはこれを想定内としていたかもしれないが)社会全体としては「そのようなことが起こること自体」が想定外で「起きないだろう」と思っていた。
あるいは、無関心でいられた。


このことの意味は思っている以上に大きいのではないだろうか?


というのも、地震の規模の想定を高くすべきだという声はあったはずなのだが、それらは当たり前のように、ごく自然に社会は「合理的」に無視して来たのだと思うからだ。


原発の電源バックアップのシステムも、コストや建設のしやすさ等のバランスの中で、
使用済み核燃料の屋内保管プール設置も放射性物質の拡散防止や管理を考慮したうえで、
いずれも合理的に妥当だと結論づけてきたのである。


ある意味、想定外の事態が発生しなければ「正解」であり続けていたはずなのだ。


「想定外」のものは(それが本当に想定外ならば)「科学技術」の範疇ではないのだと思う。
事実の裏付けのない、確率的に無視できるとした「想定外」は、「科学技術」の範疇には存在しにくい。
敢えて言うならばむしろ「疑似科学」の範疇に仕分けされてしまうのでは。(もちろん事後はそうでない)


あくまでこれは社会の認識の話で、個々には「私は想定内だと思っていた」という人も当然いるだろうし、事後に発生メカニズムを解析すれば科学的なものになるが、事前にそれがけして「客観的な共通認識」にはなりえなかったという話だ。
これは人が特段「愚か」だったからではなく、むしろ合理的で「賢かった」からで、それが人の限界。


確率というのは不思議なもので様々なことをこれにより知ることができるのだけれど、全体を左右する一番肝心な核心の部分はどこまでいっても運任せなんだよな。(ミクロな個々にとってはなおさら)


いずれにしても「人智を尽くす」ことには変わりは無いのだけど、「天命」は「想定外」「未知」としてその後ろに控えている。
これを宗教的な「畏れ」であっても、科学者が持つ理性的な「限界の認識」「謙虚さ」でもよいのだが、「それが控えている」という観念は安易に捨て去るべきではないと思う。(大抵は科学者よりも実務者がこれを軽んじるのだろうけど)


リスクを可視化しようとする試みは賢明だが、本質的には根本リスクは顕在化しない。(顕在化しないからリスク)


自然が隠し持つ「未知」や「想定外」の「発生」に無力であることは人の宿命だとしても、その影響で起きる人災は多少なりとも人が選択できるだけに「はたして人類にとって許容できるのか否か」は重要な意味を持つ。


それが「リスクを恐れていたら何もできない」という「正しい一般論」が、(個別の現実のケースについて考えるとき)それを妥当とするかどうかを分けるわかれ道なのだろうと思う。


この一般論の範疇で言うなら、少しずつでも便利を切り捨てるリスクを採ってもいいんじゃない?
「絶対」それが良いとは言わないけど。