あるがままに



私自身が「あるがままに」に直面したとき
「あるがまま」の「ある」とは一体「いかようにあるのか?」と疑問に思い
それを問えば
「分からない。」
とか、
「たぶん〜だろう」
とか
場合によっては
「〜である」
なんて答え方になるのかもしれない。
そして、それが問いである以上、〜は具体的であることが期待される。


私なんかだと
「これはたぶんこうなんだろうけど、そこから先は分からない」
なんてところに落ち着く。


「問うている」時点でこれは理性なんだろうと思うし、たとえそれがもともと「あるがまま」だとしても、言葉となった瞬間にそれはあるがままでも何でもなくなるのだと思う。(←これも「あるがまま」に関してまったく説明などにはならない)
何かにこだわっているから「問い」や「答え」になる。(価値、評価、主観が混じってしまう)
「あるがまま」を悟ることができなくても、少なくともこだわりのある所に「あるがまま」があるとは予感できない。


けれど、「問わない」ことを想像して
「いかようにあるのかにかかわらずある。」
な境地を予感はできる。


そのような境地を認識することはできないが、想像することだけはできる。


これを
「いかようにあるのかにかかわらずあるのだ」と言葉にし答えられるようでは、それは「ありのまま」ではないだろうし、その境地ではないだろうということも予感される。


おそらく、もしそのような境地にある者がいたならば、私から見ればまったく的外れな「いかよう」に出会おうとも、全く気にせずに「いかにも」とこたえるだろう。
たとえば「あるがままにとは執着である」とか「あるがままとは人為である」とか「あるがままとはパソコンのこと」とか・・・・どのようなあるがままにに出会おうとも「いかにも」と答えるのだろう。
禅問答などもそういうものなのかなとは予感する。
「あるがままにとはこれいかに」「あるがままにとはパソコンである」なんてことになりそうだ。


答えの具体的な内容などどうでもいい。
言葉を使ったやり取りだが、それは必須ではない。
ただそのやり取りでピンとくればいい。
そのピンと来たものを
「お師匠、わかりました、あるがままにとはいかようにあるかのにかかわらずということなんですね」
(単に「わかりました」でもいいけど)
なんて答えればバシッと肩に来そうだ。
たとえピンと来ても、黙って頭を下げることぐらいしかできないだろう。


それは客観的なものとして顕在化させそれを介在して共有が行われたなどというものではないが、より適切で、よりそのまま、それ以外にあり得ないあり方で伝えられる。(もちろん、言葉に表されたこれもそういうものではないと予感する)


これはHowToじゃないから、そのように答えること自体はまるで重要じゃない。


予感した刹那に発生し、言葉にした瞬間に消え去る。


もしかすると、「理性」が「ひらめき」に一瞬遅れをとっているその一瞬間には「あるがまま」があるのかもしれない。


とずらずらと書いてきたが、くどいようだがこのようなことを書いている時点で「ありのまま」はここにはない。
ただ私の中でピンと来た瞬間に予感することをただ繰り返すだけで、客観的なものとして提出することもできない。


有用かどうかを前提にすれば語ることはできる。がそれは私の個人の価値として表明できるにすぎない。
予感を「信じる」ことはできる。がそれは私の中で持ち続けることができるにすぎない。


だからこそ凡庸な人である私が「ありのまま」に直面すると、そのことに関して表現したくなり、そしてしようとするから
「これはたぶんこうなんだろうけど、そこから先は分からない」
となる。
理性で語ることになってしまい、ただ、「至らない」ことのみが確認されるだけだ。


でもこれは、どんなに言葉やその理路が厳密でもそれとは関係なしに、ピンときてストンとくること無しに「分かる」「伝わる」ということもないだろうと思う。
そして、そのことを誰しも「ありのままの世界」で日々経験してはいないか?