思いの吹き溜まり

今日は少し禁断の果実に少しだけ触れようと思う。(怖ぁー)


科学を論理的に批判することなど私には到底できない。(科学者じゃないからといのももちろんあるけど)
もし、それが本当に科学ならば因は必ず果をもたらすだろうと思っている。
それが人の社会に入り込み、身近なものになったときは、つまりは実用面(技術面)では「誤差」という形で(その程度はともかく)例外は必ず出ると思っている。
実際は実験段階でもそれはある。
でも、例外があるとしても特異的な誤差の出方やその程度が小さいと判断できるならおおむね信用している。
だから、一般人の感覚レベルで科学を正しいと思い、技術を概ね信用している。


水伝や血液型のように最近話題になって取り上げられているものをあたかも科学的に語られては困るし、科学的だと信じる人がいたらこれも困る。


でも、なんで水伝のようなものを科学的に説明しようとするのか(その契機)には興味がある。


そこには、何かを伝えたいときに、すべてのことは科学的に語られなければいけないかのような圧力があるからなのではないかと疑っている。
悪意とか、損得とかそのような(詐欺的な)人間社会の要素にまぎれて区別することが難しいいのだけれども、どうしても伝えたいことがあるのに、それは科学的ではないと言う一点で拒絶されてしまうような。


科学で伝えるべきでないものを何とか「受け入れてもらえるように」科学のようなものを装って伝えてしまうという暴挙に出てしまうような。


「たとえ話」のように気軽に「科学的」を使ってしまうような・・・


科学的でないと、もはや何事をも伝えられないという観念が私たちを支配し始めているのではないか?
なんて思いは持つ。
それは「危惧」として持つ。


科学は未知なるものから地道に既知化していく試みだから、もともとは未知にに謙虚なのだけれども、科学の成果は案外未知に傲慢。


私は科学的に解決できる問題よりも、圧倒的に多くの科学的に解決できない、答えの無い問題に囲まれながら生きている。
(それはもしかすると「まだ」解決していない、「まだ」答えの無い問題でしかないのかもしれないが、少なくとも今を生きる私には解決できない、答えの無い問題との差は感知できない。)


私は、それを科学的に説明しようとは思わないが、何らかの方法では伝えたいという欲求もまた持っている。
そのようなものが封殺されるようであれば、居場所をなくした「思いの吹き溜まり」として「疑似科学」もまた存在し続けるのだろうなと思ったりする。

畏れ

前回見逃したNHK裁判員制度の模擬裁判を今日見ることができた。
重い。
「死刑制度」が存続する中で重罪の判決にかかわることのなんと重いことか・・・


そして、重いと感じることは、同時に死刑制度を持つ国に生まれ、その制度を国民の総意として維持している「総意の一員」として「責任を負う」ということにもなるのだろう。
人を死に至らしめた故に罪に問われた被告を、意思をもって死に至らしめる。
すべての可能性に終止符を打つ。
多数の日本国民が用意してくれたシステムに守られながら・・・


「死刑」という刑罰は被告の可能性を奪うだけでなく、裁いた人の裁定を修正する可能性をも奪うことにおいて他の刑罰とは決定的に違う。
人を死に至らしめる理由をつけることはできても、その正当性を得たとしても、人を死に至らしめたという事実は変わらない。


システムだからと割り切ればいいというのだろうか?


人が罪びとに求める「罪の意識」とは「畏れ」なのだと思う。
人はその存在を理屈では明確に説明できないし、指し示すこともできない。
畏れは既知の中には無いからだと思う。
(人を殺してはいけない理由も、それを分析して求め明確に規定しようとすればするほど、実はその一方で人を殺す可能性と選択肢を広げていく。)
畏れは未知の中にこそある。(と私は思う)



それは被告にとっても裁判員にとっても変わらないように思う。
死刑の判決に携わるときにその裁定者が「畏れ」を抱かずにいられるとしたら・・・被告が自らの罪に「恐れ」を抱かないのと同じくらい、いや、それが「正しさ」をまとっている分だけなおさら恐ろしい。


死刑制度が正義の名の下に行われるならば、裁くものは一生その贖罪の念を持ち続けることになるのだと思う。
裁定に参加することが致し方なく、それが責任だとしたならば、責任を負うということはそういうことなのではなかろうか?

変な方向にそれてしまったけど、とにかく重い。

ミクロマクロ_その5

ここでいうミクロは「私」[private] マクロは「公」[public]に関係するのだろうけれども、それは関係性であって、具体的に公とは何かとか私とはなにかという問いとは距離を置いた所にある様に思う。
会社で会社全体の利益に利することを公、反することを「私」として「公私混同するな」のように使われるたりもするが、同時に会社はより大きな関係性から見れば「私」にすぎない。
「private」と[public]が具体的に市民と国家に限定されるならば、それも、ミクロマクロの関係性の実用的な特殊形にすぎない。
「関係性」は人が何か「具体的」行動を起こすときの「具体的」な指針なんてものは何も示されない。
「関係性」は考慮されるものであっても「答え」ではないから・・・。
実際に行動を起こすときには「答え」は「良心」に基づいて間違うリスクを負いつつ自分で見つけるしかないのかもしれない。
このようなことを言ってみたところで、表面上それは「ためらい」とか「躊躇」「忍耐」という形でしか現れようもないかもしれないので「何も言っていないのと同じ」というミクロな感覚もあるが、マクロには即時的ではない経時的な結果にきっと差が出るだろうと思う。

ミクロマクロ_その4

でも、時として、この関係は人の望ましさを「疎外」する共犯者のようにふるまう。
多くの人が望ましいと思っているにもかかわらず、その同じ多くの人によって積極的にその望ましさを、そして自らを、そこから疎遠なものにして、結果的にだれにとっても望ましくない状況を強化する方向に作用してしまったりする。


人の「痛み」(とか「喜び」)といった「切実さ」を感じるのはミクロな部分においてである。
マクロなものから想像力や共感力により「痛み」「喜び」を受け取ることがあるにしても、マクロの持つ無数の「切実な痛み」の「すべて」に対して、ミクロなものに感じているものと同じように感じることは人にはできない。
マクロはそのような個々の「切実な痛み」をバラツキとして相殺して、「一様な鈍痛」に回収してしまう。(それこそがマクロな概念の存在意義であり効用だから)
マクロな「一般論」が時に片腹痛いのはそんな個々の「切実な痛み」を救い上げることができないからであろう。
そして「一般論」が「切実な痛み」をその「感知不可能性」を理由にして一切顧みなければ「鈍痛」すらも無いものとして扱いかねない。
そんな「切実な痛みを顧みない一般論」は、その反動として「一般論を顧みない切実さ」を強化する。
そして強化された「切実さ」は別の新たな「一般論」を(これもあらたにその反動として)要請する。
そして互いを対立としてとらえている限りは、その相互作用の結果として、気がつけば人は「切実さ」からも「望ましさ」から「当初有用とおもわれた一般論」からも疎遠な場所に置かれてしまうことになり「見えざる神の手」からも見放される。

ミクロマクロ_その3

より身近な何か(誰か)に、より肩入れすること。
どんな立場になっても、どんな境遇にあっても肩入れすること。
理屈ではなく肩入れすること。(特別な関心を向けること)
必ずしも、批判をしないとか、感情的な怒りを向けないとかそういうことではなく、肩入れするからこそ批判をし、感情的になることも同じである。


いずれにしても、これらはいずれも特別に肩入れし、関心の向け方が偏っていることにおいてその外部に対して必ずしも「公正」「公平」「客観的」であるとはいえない。
でも、私自身はミクロな領域であれば、そういう偏ったものは人には必要だろうとも思う。
(このとき家族とかコミュニティーのような社会の中の「より小さいもの」を想定していると思っていただいて良い)
それらを切り捨てることは無理なストレスを人に与えることになると思うし、それら自体が深く人の幸福感とも関与しているのではないかとも思っている。
のみならず、それを猶予して持ち続けることの中にこそマクロな概念を必要とする「契機」を生み出す原動力があるのだろうとさえ思う。


でも、一方で、外部との間に壁をつくり、閉鎖的・特異的になりやすい。
その、ある(散在する不特定多数の)ミクロにおける特異的な状況がマクロ的な環境に瑕疵をもたらし、マクロはその瑕疵を修復しようとして巡り巡ってまたミクロな領域の存続に大きな影響(ダメージ)を与える。
つまり、ミクロなあり方により形作られたマクロな環境がミクロな領域の在り方に「現実」として戻ってきて、実に無機的に介入してくることにもなる。


情はミクロ的に作用し、理はマクロ的に作用する。
どちらが優位ということではなく、たがいに作用しあう。
どちらかが現実であるというものではなく、たがいに作用しあう関係性が観念化されたものが現実であるような気もする。
ミクロ的な情は「より感覚的」で、身近で、即時的である。そしてミクロがミクロで収まっている限り比較的その影響は軽微だ。(ゆえに確からしく感じさせ、ゆえに自発的な変化も容易だ)
マクロ的な理は「より理性的」で、疎遠で、経時的である。そして比較的その影響は甚大だ。(ゆえに不確からしく感じさせ、ゆえに自発的な変化が難しい)
どちらかがより真実であるというものでもない。


そして、情はそれを満足させるために理を必要とし、理はその正当性(理を適用する契機、理を理とする前提)を得るために情を必要とする。
どちらかが人であることの本質的な性質であるということもなく、いずれもが(ということよりもそのあり方が)より本質的なのではなかろうか。

ミクロマクロ_その2

ミクロとマクロといっても、必ずしも各分野の専門家のように厳格な定義があるわけではなく、「より」小さい・大きい、「より」狭い・広い、「より」身近・疎遠といった概念を考えるときに便利だから使うだけで、必ずしも「個人がミクロで社会がマクロ」とか「国民がミクロで国家がマクロ」のように「具体的」「固定的」であるわけではなく、ある社会がミクロでそれを包み込む社会がマクロであったりすることもあれば国家がミクロでそれをとりまく国際社会がマクロであったりするような、どちらかと言いうと相対的な関係のようなものを頭に描いている。


人の世界にこのような概念を当てはめたときの、おおむね「違う環境を示しながらも互いの関与を無視できない」ような関係性。


ミクロ無しにマクロは成り立たず、マクロなしにもミクロは成り立たない関係性。
ミクロの行為はマクロに影響し、マクロの動きはミクロに影響する関係性。
ミクロとマクロには違う時間感覚がある。(時間的ギャップ)
ミクロとマクロには別の空間感覚がある。(空間的ギャップ)
ミクロは個別的にあらわれ、マクロは統計的に表れる。(ミクロは偶然的な姿で、マクロは必然的な[偶然をバラツキとして相殺した]姿で現れる・・・かな?)
どちらかに整合性を付ける対象ではなく、いずれをも包含した「あり方」をもって整合的であるとする。
これらが互いに影響しあうことがなくなれば、それは最も安定した状態ではあるけれども、それは何の契機も発生しない、ゆえに運動もなければ自覚される生もない「ありかた」。


いろいろ「〜のようなもの」として書き出してみたけど、そのようなものとして(今の時点で私に)観念されたミクロとマクロの話である。

ミクロマクロ_その1

最近よくミクロ的なものとマクロ的なもののことを考える。


それは日常の中で、ニュースの中でいろいろな出来事が起こり、そのことについて考えると私自身の中で整合性の取れない部分が出てくるからだ。


それはある時は「情と理」として現れたり、「内部と外部」として現れたり、「疎外」という言葉に触れたときに現れたり・・・


そして、最近これらをどちらか一方に無理やり整合性を付け明確化しようとする圧力を感じ、そんなところにさまざまな無理が生じているように思えるからだ。


たとえば拉致被害者問題ならば、ミクロな視点(ご家族の立場)に自らを重ね合わせれば「許せない」理不尽極まりないことであって、ご家族や家族会の方々が強硬であることを当たり前だと思っている。
この感覚は最も正直で確からしく、それゆえに人である上で大事なものでもあると思う。
しかし、その一方で国と国の交渉事としてのマクロな視点から見ると、強硬であることが事態を収拾するとは思えず、「正さ」の名のもとにより多くの人を理不尽な状況に追い込むことにもなりかねない。


たとえば犯罪被害者問題ならば、ミクロな視点(ご家族の立場)に自らを重ね合わせれば相手を殺したいほど「許せない」ことであって、犯罪者に対して厳罰を望むのは当たり前のことだと思っている。
しかし、その一方でマクロな視点から見ると、「厳罰」が社会をよりよくするとは思えない。


環境問題にしても、経済に依存している環境の中で経済合理性に必ずしもそぐわない制約が、ある特定個人に及ぼすかもしれない理不尽に対する反発は当たり前のことだとも思っている。
しかし、その一方でマクロ的な視点からみれば、それらをそのまま認めてしまうとやがては多くの人々がそれ以上の理不尽をこうむることにもなりかねない。


このような問題は整合性を付けようとすれば立場による「対立」を生み出すことになる。
おそらく、観念を離れて何らかの行動を起こすことにおいては「違う行動」として現れざるを得ない。
ただ、「違う行動」に現れざるを得ないことを理由に、観念の整合性を強制する様な事があればそれは不幸なことではないだろうか。
「違う行動」がありながらも、いずれもがミクロとマクロのバランスを「ためらい」として内在させ、その「ためらい」を通じて他の立場を尊重できないものなのだろうかと思う。