ミクロマクロ_その1

最近よくミクロ的なものとマクロ的なもののことを考える。


それは日常の中で、ニュースの中でいろいろな出来事が起こり、そのことについて考えると私自身の中で整合性の取れない部分が出てくるからだ。


それはある時は「情と理」として現れたり、「内部と外部」として現れたり、「疎外」という言葉に触れたときに現れたり・・・


そして、最近これらをどちらか一方に無理やり整合性を付け明確化しようとする圧力を感じ、そんなところにさまざまな無理が生じているように思えるからだ。


たとえば拉致被害者問題ならば、ミクロな視点(ご家族の立場)に自らを重ね合わせれば「許せない」理不尽極まりないことであって、ご家族や家族会の方々が強硬であることを当たり前だと思っている。
この感覚は最も正直で確からしく、それゆえに人である上で大事なものでもあると思う。
しかし、その一方で国と国の交渉事としてのマクロな視点から見ると、強硬であることが事態を収拾するとは思えず、「正さ」の名のもとにより多くの人を理不尽な状況に追い込むことにもなりかねない。


たとえば犯罪被害者問題ならば、ミクロな視点(ご家族の立場)に自らを重ね合わせれば相手を殺したいほど「許せない」ことであって、犯罪者に対して厳罰を望むのは当たり前のことだと思っている。
しかし、その一方でマクロな視点から見ると、「厳罰」が社会をよりよくするとは思えない。


環境問題にしても、経済に依存している環境の中で経済合理性に必ずしもそぐわない制約が、ある特定個人に及ぼすかもしれない理不尽に対する反発は当たり前のことだとも思っている。
しかし、その一方でマクロ的な視点からみれば、それらをそのまま認めてしまうとやがては多くの人々がそれ以上の理不尽をこうむることにもなりかねない。


このような問題は整合性を付けようとすれば立場による「対立」を生み出すことになる。
おそらく、観念を離れて何らかの行動を起こすことにおいては「違う行動」として現れざるを得ない。
ただ、「違う行動」に現れざるを得ないことを理由に、観念の整合性を強制する様な事があればそれは不幸なことではないだろうか。
「違う行動」がありながらも、いずれもがミクロとマクロのバランスを「ためらい」として内在させ、その「ためらい」を通じて他の立場を尊重できないものなのだろうかと思う。