ミクロマクロ_その2
ミクロとマクロといっても、必ずしも各分野の専門家のように厳格な定義があるわけではなく、「より」小さい・大きい、「より」狭い・広い、「より」身近・疎遠といった概念を考えるときに便利だから使うだけで、必ずしも「個人がミクロで社会がマクロ」とか「国民がミクロで国家がマクロ」のように「具体的」「固定的」であるわけではなく、ある社会がミクロでそれを包み込む社会がマクロであったりすることもあれば国家がミクロでそれをとりまく国際社会がマクロであったりするような、どちらかと言いうと相対的な関係のようなものを頭に描いている。
人の世界にこのような概念を当てはめたときの、おおむね「違う環境を示しながらも互いの関与を無視できない」ような関係性。
ミクロ無しにマクロは成り立たず、マクロなしにもミクロは成り立たない関係性。
ミクロの行為はマクロに影響し、マクロの動きはミクロに影響する関係性。
ミクロとマクロには違う時間感覚がある。(時間的ギャップ)
ミクロとマクロには別の空間感覚がある。(空間的ギャップ)
ミクロは個別的にあらわれ、マクロは統計的に表れる。(ミクロは偶然的な姿で、マクロは必然的な[偶然をバラツキとして相殺した]姿で現れる・・・かな?)
どちらかに整合性を付ける対象ではなく、いずれをも包含した「あり方」をもって整合的であるとする。
これらが互いに影響しあうことがなくなれば、それは最も安定した状態ではあるけれども、それは何の契機も発生しない、ゆえに運動もなければ自覚される生もない「ありかた」。
いろいろ「〜のようなもの」として書き出してみたけど、そのようなものとして(今の時点で私に)観念されたミクロとマクロの話である。