重宝な責任

教師から教育の力を奪ったのは「責任」なのではないか?
「責任」と言っても生徒に対する「責任」や教育に対する「責任」では無くて「御達し」の履行「責任」。
「御達し」と「現場」との矛盾が生み出す「問題」は「現場」に押し付けられ「御達し」を出す側が責任を採ることはあまり無い。

「ゆとり」という「御達し」は教師が考え出した物ではない。
その「施策」も教師が考え出した物ではない。
教師が与えられた物は「お達しの履行義務」。
そして、ある特定の個人が一人で進めた物でもない。

「ゆとり」が注目されたのにはされたなりの理由がある。
その理由は「社会」が知識偏重の詰め込み教育による「考える力の不足」という「問題」を認識し日本の将来を憂いたからだろう。
それは当時、アメリカをはじめとして独創的な発想により、新しいビジネスが海外で次々に生まれはじめるという状況があったり、日本はノーベル賞や基礎研究や特許といった独創的な発想の欠如が将来の発展への阻害要因(日本の弱点)になっているという認識を持つ産業界からの要請もあったはず。
一つの目標に向かってガムシャラに突き進んできた一般世間(戦後世代)にとっても「生活の質」は重大な関心事だったはず。
「ゆとり」はそんな欧米の自由な教育環境・社会環境が念頭にあったことは間違いあるまい。
でも残念なことに欧米「社会」にはある「自由・ゆとりを許容する習慣」が日本「社会」には無いことを忘れていたのではないかと思う。

教育により将来を担う子供が大人になるときにはそのような社会になるだろうとでも思ったか、教育にだけゆとりを求めそれを包み込む「社会」は、それこそ海外で次々に生まれる新しい経済の潮流に翻弄され「ゆとり」の「ゆ」の字も許容されなかった。
「社会」のゆとりの無さは変わらず、「教育」にだけそれが求められ、教育現場で「ゆとり」を作っても、「独創性」を養うべき「社会(家庭・企業・環境)」がその「ゆとり」をまるで生かすことができなかったばかりか、その役目を全て「教育現場」に押し付けて、その責任を教師に丸投げしてしまった。

そして、「ゆとり」が「独創性向上」にもいかされず、学力の低下だけを引起してしまうといった結果を目にするにいたって責任を丸投げした事などすっかり忘れ、一斉に教師を非難し始める。

無責任な政治家は産業界と一緒になって、自らの「御達し」が駄作であった事など省みることも無く、「御達し」の「矛盾」を一身に背負い、その「御達し」の「成果」を数字で強要してくる彼らに応え無ければいけないという「責任」から苦悩している彼らに向かって「無能」「不適格」などと言い始めた。
意思があり選択があれば責任も問えるだろうが、意思を抑圧し、選択を与えずにどうやって「無能」「不適格」などといって「責任」を問えるというのか?
一体、政治家も産業界も世間も少しでも当初の課題を克服すべく社会の「ゆとり」を支援したことがあったのだろうか?

「社会」と「教育」は一体ではないのか?

それなのに「ゆとり」の次は「愛国心」だ。
政府自身が進めるグローバル市場経済政策の真っ只中でその主役である市場原理主義者は「愛国心」の「愛」の字も気にしやしない。
不都合があれば都合の良い拠点に平気で帰属を移すのが彼らだ。
政府は、教育の運営もその市場原理に委ねようとさえしている。

社会自体がゆとりも無く「自由を伴わない似非自己責任」が蔓延するなかにあって自分の事にさえ汲々としていて「愛国心」どころではないくせに、またもや社会と教育現場の乖離・矛盾を法まで改定してそれを「現場」に押し付けようとする。
公務員だからあたりまえ?
そんな定型句を口にしたいのならば、まず、より強い意思決定権を持つ者が「政治家ならあたりまえ」「社会人ならあたりまえ」「人ならあたりまえ」を問うてからにしたほうが良いのではないだろうか。

「美しさ」に浮かされ、「現場」以外の誰も責任をとらないような形だけのシステム作りに夢中だが、過去の同じ様な構図で起きた失敗の検証・責任すら曖昧にしてしまう者にまともなシステム作りができるとは思えない。
左寄りの教師をコントロールできりゃ嬉しいのかもしれないが,「現場」をロボットのように扱い無気力にしてどうして教育改革ができるのか?
どんな美しい教育が実現すると言うのか?
結果が出なければこれまで同様、「現場」にその責任を全てをおっかぶせて知らんぷりを決め込むのが関の山なのではないのか?