ふと思ったこと

文化とか伝統って言うのは「無駄」から生まれるのではないかなぁ。
なにか理由のある既知から生まれるのだろうか?
偶然とか未知とかから厳密な理由も無くひょっこり現れて、その後に意味付けされて理窟付けされて行くんじゃないのかな。
大体生まれたときは実用性の無い余計な「異物」のような物でしかなかったんじゃなかろうか?

求心力の為の文化・伝統なんて無くて、無駄から生まれた文化とか伝統とかが徐々に共有されることによって自然にそれが求心力に「なってしまう」ような...
偶然・未知があって、文化がうまれ、伝統として継承され、求心力が生じる。
原因と結果のオーダーはこうなんじゃないのかなぁ。
文化や伝統から国家が生まれることは可能でも国家から文化や伝統が生まれると考えるのは妥当なのだろうか?

求心力を失ったから文化・伝統を「見直させよう」とかは原因と結果が逆になっているんじゃないのかなぁ。
「無駄」が無くなったから文化・伝統が廃れるんじゃないのか?
文化とは「このように解釈しなければいけない」とか、伝統とは「このようでなければいけない」とか規定するから硬直してそこから逃げていく。
継承・発展がセットになっているのに、発展の芽を異物として排除し、合理的運営で無駄を排除して行ったそこに何が残るというのだろう。
形骸化した残骸だけ何て事にならないだろうか?

自発的な自然な人の営みとしての結果でなければその効用もまた得られないのではないか?
自発的な自然な人の営みとして、それが大事に思われ、継承発展させるのは規制でも法的強制力でもなく、「無駄」の許容だったりすることはないのだろうか?

どうも結果だけを(効率的に)得ようとするあまり、原因と結果が逆転してしまっているのではないかと思うことが多い。