ミクロマクロ_その3

より身近な何か(誰か)に、より肩入れすること。
どんな立場になっても、どんな境遇にあっても肩入れすること。
理屈ではなく肩入れすること。(特別な関心を向けること)
必ずしも、批判をしないとか、感情的な怒りを向けないとかそういうことではなく、肩入れするからこそ批判をし、感情的になることも同じである。


いずれにしても、これらはいずれも特別に肩入れし、関心の向け方が偏っていることにおいてその外部に対して必ずしも「公正」「公平」「客観的」であるとはいえない。
でも、私自身はミクロな領域であれば、そういう偏ったものは人には必要だろうとも思う。
(このとき家族とかコミュニティーのような社会の中の「より小さいもの」を想定していると思っていただいて良い)
それらを切り捨てることは無理なストレスを人に与えることになると思うし、それら自体が深く人の幸福感とも関与しているのではないかとも思っている。
のみならず、それを猶予して持ち続けることの中にこそマクロな概念を必要とする「契機」を生み出す原動力があるのだろうとさえ思う。


でも、一方で、外部との間に壁をつくり、閉鎖的・特異的になりやすい。
その、ある(散在する不特定多数の)ミクロにおける特異的な状況がマクロ的な環境に瑕疵をもたらし、マクロはその瑕疵を修復しようとして巡り巡ってまたミクロな領域の存続に大きな影響(ダメージ)を与える。
つまり、ミクロなあり方により形作られたマクロな環境がミクロな領域の在り方に「現実」として戻ってきて、実に無機的に介入してくることにもなる。


情はミクロ的に作用し、理はマクロ的に作用する。
どちらが優位ということではなく、たがいに作用しあう。
どちらかが現実であるというものではなく、たがいに作用しあう関係性が観念化されたものが現実であるような気もする。
ミクロ的な情は「より感覚的」で、身近で、即時的である。そしてミクロがミクロで収まっている限り比較的その影響は軽微だ。(ゆえに確からしく感じさせ、ゆえに自発的な変化も容易だ)
マクロ的な理は「より理性的」で、疎遠で、経時的である。そして比較的その影響は甚大だ。(ゆえに不確からしく感じさせ、ゆえに自発的な変化が難しい)
どちらかがより真実であるというものでもない。


そして、情はそれを満足させるために理を必要とし、理はその正当性(理を適用する契機、理を理とする前提)を得るために情を必要とする。
どちらかが人であることの本質的な性質であるということもなく、いずれもが(ということよりもそのあり方が)より本質的なのではなかろうか。