ミクロマクロ_その4

でも、時として、この関係は人の望ましさを「疎外」する共犯者のようにふるまう。
多くの人が望ましいと思っているにもかかわらず、その同じ多くの人によって積極的にその望ましさを、そして自らを、そこから疎遠なものにして、結果的にだれにとっても望ましくない状況を強化する方向に作用してしまったりする。


人の「痛み」(とか「喜び」)といった「切実さ」を感じるのはミクロな部分においてである。
マクロなものから想像力や共感力により「痛み」「喜び」を受け取ることがあるにしても、マクロの持つ無数の「切実な痛み」の「すべて」に対して、ミクロなものに感じているものと同じように感じることは人にはできない。
マクロはそのような個々の「切実な痛み」をバラツキとして相殺して、「一様な鈍痛」に回収してしまう。(それこそがマクロな概念の存在意義であり効用だから)
マクロな「一般論」が時に片腹痛いのはそんな個々の「切実な痛み」を救い上げることができないからであろう。
そして「一般論」が「切実な痛み」をその「感知不可能性」を理由にして一切顧みなければ「鈍痛」すらも無いものとして扱いかねない。
そんな「切実な痛みを顧みない一般論」は、その反動として「一般論を顧みない切実さ」を強化する。
そして強化された「切実さ」は別の新たな「一般論」を(これもあらたにその反動として)要請する。
そして互いを対立としてとらえている限りは、その相互作用の結果として、気がつけば人は「切実さ」からも「望ましさ」から「当初有用とおもわれた一般論」からも疎遠な場所に置かれてしまうことになり「見えざる神の手」からも見放される。