「私に複数の命と複数の立場が有ったなら」

なんてことを考えた。
もしそうなら、きっと世の中で起きる事実を今よりも客観的に確率的につまりは論理的に受け入れる事もそれに基づく決定に従う事も抵抗なくできるだろうと想像する。
主観と客観との間で起こる様々な矛盾も、致命的な問題として受け止めなくても済むだろうとも思う。


「私」というものが「唯一」の「私」であるという観念(事実?)は厄介なものである。


大勢とか多数の利益が優先される事はマクロに見れば概ね妥当だとして良いのだと思うが,それだけを考えるわけにはいかなくするのが「私」の唯一性や、立場を共有する属性としての「私たち」の唯一性(これは幻想かもしれないが)、(命の)一回性といったものなのではなかろうか。


多数の利益の影に追いやられた少数が被る損失とそれによりもたらされる理不尽。


多数が「正義」であれば「正義」であるほど、それが「絶対的」であればあるほど少数の理不尽もまた「絶望的」に増大する。


世の中に起こるありとあらゆる事象やテーマのもとで発生しうるその構図は、ありとあらゆる事象においてその少数に置かれるリスクを潜在的に全ての個人に付与している。


それは具体的な「正義」についてではなく、「正義」という概念や「絶対」という概念が持つ性質だ。


もし、私が世界に散らばる様々な立場の「無数の私」だったなら、多数(という正義)により私自身の「1/無数」が少数の立場に置かれても「致命的」ではない。
世の中を論理的に捨象して切り捨てようが、残りの「無数-1/無数の私」を考えれば悪くはないし「1/無数の私」を考慮に入れて「無数/無数の私」として評価したとしても合理的に合格点を与えられる。


確率的にものごとを見渡し、それを拠り所に、そこに決着をつけると言う事は、誰もが「無数の私」であれば何の支障もなく受け入れられる。
「国」であったり「私たち」であっても、一度に「いくつもの私」がいくつもの「国」や「私たち」にそれぞれカテゴライズされ、それぞれの場で様々な立場で有り得れば、「唯一」に拠らなくとも済むわけで一部の為に「全体」に損失をもたらす争いが「不合理」である事、不合理は損失をもたらす事等を抵抗なく受け入れられるだろう。


ところがやはりそうはいかない。
人が生物であり、1人の人間としての意識をもつ以上、この「唯一性」「一回性」から逃れる事は出来ず、人は常に「致命的」な何かに付きまとわれる。


「殺されてしまえば終わり」(致命的)と思い、それを絶対的に避けようとするのも、「国も滅びれば終わり」(この場合それでも実際は人そのものはしぶとく生きていくだろうが)と思うのも、それらに恐れを抱いたり、そのために争ったり、するのも唯一性から逃れる事が困難だからというところが有るのかもしれない。
「私」や身近な「私たち」にもたらされる「死」や「理不尽」に対してそれを回避することに絶対的な価値観を求め全体の合理性を離れてしまうのも、それを「情」として捨てられないのも、これら「唯一性」「一回性」といったものと関係が有るように思う。


人の集団がそこにある以上、多数が有れば必ず少数がある。
しかも、ありとあらゆる様々な事象にそれは現れる。
仮に一度は少数を排除する事が出来たとしても、多数の中から新たな別の少数が生まれる。
絶対的に排除しようとすればするほど少数への「理不尽」もそれにあわせて「致命的」になる。
そんな時「唯一性」や「一回性」から逃れられないこれら少数はその「致命的」状況の中で何を望むだろう。
その望むものは多数にとってけして快いものにはならないであろう。
さらに、多数の「正しさ」が正しければ正しいほど、その多数が持つ「不快さ」もまた増大するという形で多数自身にも影響する。


何らかの指標を前提として(=捨象して)設定し「全体の利益」を定めたとき、確かに「合理性」は明らかになる。
しかし、その正しさを拠り所にして、そこで捨象され切り捨てられる「少数」の「唯一性」「一回性」までをも捨てさせる事は出来ない。
不合理、非効率に「見え」ようとも、物質にはないこれら少数の「唯一性」「一回性」に脅威が及んでしまえば、「多数を含めた全体のあり方」そのものにも負の影響をもたらしてしまうような気がしてならない。


私は「合理性」もその過程の捨象も手段として尊重はするが、そこで切り捨てられる「少数」の「唯一性」「一回性」をケアする事を前提としない合理性は「不合理」であると考える。