政治家の発言

ニュースでは厚生労働大臣の発言がいろいろ取り沙汰されているようだ。

他にいろいろ重要な議論が控えている中でメディアがこの問題に独占されてしまう事には懸念を持つけど,私も「機械」のように扱われるのは嬉しくないな。
インプットに対してアウトプットが決まっているみたいで。
やはり、それがどんな部分にせよ,それが長所であろうと短所であろうと唯一無二である事を願ってしまうから。
これはもちろん私の主観であり、「機械」という言葉に何らかの私なりの予断が含まれている。


学者が学術的に何かを分析する時に、予断や言葉に付属した意味を廃する必要性は強く感じるけれど、それは、その結果に是非を問うことも、決断を迫られる事も無く、人の価値と離れたところで成り立つ事を前提にしているからそうなのであって、政治家は言うなればそのようなものと人とのインターフェイスのように人の価値観と直接関わる種の「立場」なのだと思う。



科学は結果に是非など問わない。
判断の材料は与えてくれても、判断はしない。
「確率」は示せても人にとって重要な「期待値」は科学の関知しない人の価値を前提とする。

逆にいえば,だからこそ共通言語として、道具として(人にとって)有用なのだと思う。

いざ人の世界でこれを利用するときに最初に「目的」「用途」を初期値として与えるのは人以外には無いのではないか?
そこで示された真理を「最終的に」どう解釈し、どう判断するかは人がそれをする以外に無いのではないか?

そして政治家は「実務者」であって、予断を廃した真理を探究する科学者ではない。
その違いは「人」の価値に接する仕事だというところにあるのではないだろうか?
さらに言えば、たとえその手段として、その科学的分析過程で捨象されたものがあったとしても、そのケアをも要求される。

人の世界という「価値に彩られた場」が矛盾を生み、その矛盾の中で互いに生き長らえる為に必要とされるのが調整役としての政治家なのではないだろうか?

政治家の言葉が「多様な価値の色眼鏡」を通して見られるのは宿命であり、その事に対して「不用意」であった事はやはり「政治家」としての「資質」に関わる事だと私は思う。
どこまで、その不用意さを追求するのが妥当なのかという問題はあるにせよ,政治家の「言葉」をその言葉の受け手側が「予断を持って事実を受け取っている」という理由で免責しようとする事に私はあまり妥当性を感じない。
(科学者に対してそうは思わないけど)