無題

困難な時、人の為に犠牲になる事
それは自然災害かもしれないし、争いかもしれない。
大事な人を守る為に、リスクにかけること。


そんな時に、私はどうありたいだろうか?


実際にどうなるかは分らない。
自己保身に走る卑怯者や傍観者に成り下がるかもしれない。
でもそうはなりたくはないと、「そうなっていない」今はそう思う。
漠然としたイメージと戯れていられる時はそう思う事はできる。




私にとって「大事な人とは誰か」ということをどちらが大事かなんていえない状況で「決定」しなくてはいけない理不尽に遭遇するかもしれない。
1人の「より大事」な人を守る為に、多くの「大事」な人を見殺しにするかもしれないし、その逆かもしれない。
このあたりまでイメージを具現化してしまうと、そうなっていない今でも「どうありたいか」さえ分らない。
追い込まれたときには普段は予想もつかない不合理が押し寄せてくるだろう。
どちらの選択も最悪だと。


いずれも選び取れず,「そうありたい自分」を「所詮俺は偽善者さ」と言い聞かせて保身に走り、ただひたすら生き抜こうとするかもしれない。


「してはいけない」最低限の合意を「大事な人達」を守る為に冒すかもしれない。
それは、後々「拷問」とか「虐待」とか呼ばれるかもしれない。


どんなにこれら「どうありたいか」を今口にしようが、そんな事は実際にその状況にならなければ分らない。
ただ、漠然とした「どうありたいか」を私の心の内に秘めその不確かさに怯える事しか出来ない。


私はそうなっていない「今」勇ましい人が嫌いだ。


そうなっていない今、「凡庸」の中で「刺激」の誘惑にかられ、大事な人に不合理を齎す「思い」や「美しさ」を押し付けてくるものが嫌いだ。