結果としての美しさ

今でも、神戸で起きた震災時のように、多くの人が苦難を共有したとき、それまで「公共」と無縁にすら見えた人でさえもその「公共心」「思いやり」「助け合い」を発揮したりする。
その感性は理屈抜きに日本人の中に宿っていた。
苦難に一区切りがついて概ね平穏が回復された今は、以前と同じように「目に見える形」でそれが存続しているかどうかは判らないけれど「そのような環境で、そのような現象が現れた」ことに間違いはない。
そこに現れた「現象」はその悲劇にも係わらず、私に安堵感をあたえ、暖かい心地よさを与えてくれた。
私はそのとき、それを「美しい」と感じた。


起きた事は「悲劇」である。
でも、今でも私はその中で起きた現象を「美しい」と「感じて」いる。
命と向き合ったときに引き起こされた「切ない美しさ」だと「感じて」いる。


でも、望まれて生まれた「美しさ」ではない。
その周囲には明らかに「悲劇」が有る。
「美しい」と感じるからといってその「美しさ」をもたらした「災害」の再発を望むわけではない。
その「美しさ」を取り戻すべく、それをもたらした「悲劇」を美化したり演出したりする事があったら、それは「美しさ」とは別の代物になってしまう。


先日、伊藤四郎氏が、ある番組のエンディングで「戦中」の人の心の有り方の「美しさ」を懐古する姿を見ていて、その思いに一定の共感を持ちながらも、同時にご時世がご時世であるだけに何処にも回収しにくい複雑な思いに刈られてしまった。