畏れ

前回見逃したNHK裁判員制度の模擬裁判を今日見ることができた。
重い。
「死刑制度」が存続する中で重罪の判決にかかわることのなんと重いことか・・・


そして、重いと感じることは、同時に死刑制度を持つ国に生まれ、その制度を国民の総意として維持している「総意の一員」として「責任を負う」ということにもなるのだろう。
人を死に至らしめた故に罪に問われた被告を、意思をもって死に至らしめる。
すべての可能性に終止符を打つ。
多数の日本国民が用意してくれたシステムに守られながら・・・


「死刑」という刑罰は被告の可能性を奪うだけでなく、裁いた人の裁定を修正する可能性をも奪うことにおいて他の刑罰とは決定的に違う。
人を死に至らしめる理由をつけることはできても、その正当性を得たとしても、人を死に至らしめたという事実は変わらない。


システムだからと割り切ればいいというのだろうか?


人が罪びとに求める「罪の意識」とは「畏れ」なのだと思う。
人はその存在を理屈では明確に説明できないし、指し示すこともできない。
畏れは既知の中には無いからだと思う。
(人を殺してはいけない理由も、それを分析して求め明確に規定しようとすればするほど、実はその一方で人を殺す可能性と選択肢を広げていく。)
畏れは未知の中にこそある。(と私は思う)



それは被告にとっても裁判員にとっても変わらないように思う。
死刑の判決に携わるときにその裁定者が「畏れ」を抱かずにいられるとしたら・・・被告が自らの罪に「恐れ」を抱かないのと同じくらい、いや、それが「正しさ」をまとっている分だけなおさら恐ろしい。


死刑制度が正義の名の下に行われるならば、裁くものは一生その贖罪の念を持ち続けることになるのだと思う。
裁定に参加することが致し方なく、それが責任だとしたならば、責任を負うということはそういうことなのではなかろうか?

変な方向にそれてしまったけど、とにかく重い。