誰も望まない望ましさ

雰囲気というのは変わるものだなぁとつくずく思う。


アメリカ主導の経済至上主義といったらいいか、アメリカ式グローバル市場経済といったらいいか、新自由主義というか・・・いずれにしても、さまざまに表現されていたこれまでのシステムが金融危機を境に変わり始めている。


論調も変わってきた。


これまでは「現実」として君臨してきたものが、多くの人に懐疑の目で見られるようになりその力を徐々に弱めている。


これを機に「市場原理」というものが終わりを告げるのか?
これは必ずしもそうともいえない。
金融システムのクラッシュは必ずしも誰かの意図により起こったことなどではなく、当然いつかは起こるべき市場の持つ自浄作用の一つだと考えるならば、見事に市場原理が働きバランスを取ろうとしているようにも見える。


しかし、このような作用をも含めて市場原理と呼ぶことを良しとしても、それが多くの犠牲者を作り出し、不安を引き起こし、分断をもたらすものだとしたならば、人にとって望ましいものとは言えないだろう。
それに、クラッシュが起こる前の市場原理主義者が、「クラッシュ」を「市場原理の作用」として予め見込んでいたとは到底思えない。
この世に原理があるとしても、それがいつも人に都合のよい原理であるなどと考えるのは不遜である。
神がいたとしても、その神は人にとって無情に思えることでも「必要ならば」鉄槌を下す事に躊躇はない。
だからこその「原理」であり、「絶対」ということなのだろう。


今後も「市場」という言葉を使うならば、そのときは「クラッシュ」を市場の作用の一つとして見込んだうえで使ったほうがいいのではないだろうか。




ところで、もともと多くの人はこのようなシステムを望んでいたのだろうか?
金融危機発生後の日本の世論の変化を見ると必ずしもそういうわけではなかったのではないかと思う。


このシステムでは極端に富を得るものがいてその数はごく僅かで、それ以外の人々は決してこのシステムの恩恵にあずかるわけではない。
ミクロ的には其々に可能性(ばらつき)はあってもマクロ的にはその確率は決まっている。
かといって、このゲームに参加したくなくともそれは強いられる。
どの立場に自らを重ねあわせて見ているかは別にしても、そのこと自体は誰もが「知っている」ことである。




一所懸命このような「現実」に対応しようとしてもがき、葛藤していた(今もしている)ように私には思える。
けして望ましいわけではないが、それを無視しては経済生活が成り立たない。
望ましくはないのに、それに反して順応しなければいけない状況をそのまま矛盾として抱えているのはつらいものだ。


ミクロ的には、こんなときに「望ましさを行動に移すべきだ」などとマクロ的な正論を突きつけられると反発心も沸き、自らの望みなどには向き合いたくもなくなる。
其々がよって立つ立場というものはそう簡単には無視できるものではない。
その意味で、この「現実」は同時にこの矛盾に無理やりにでも整合性を突けるための「エクスキュース」、「免責」の役割をも担っているのだろう。


しかし、どのような理由があろうとも 疎遠なマクロ的な展望が身近なミクロ的な事情にかき消されて社会が思わぬ方向に加速すれば、その社会から人が疎外されていくことを回避できるわけでもない。




確かに行動を望みに一致させることには美しさがある。
できることならそうしたいものである。
しかし、これらを一致させ矛盾を解消しようとするとき、人は弱いもので、それとは逆に「望み」を「行動」に無理やり一致させようとしたりする。
でもこれは「誰も望んでいない事」や「誰も持ってはいない価値観」があたかも人々の「望み」や「価値観」であるかのように一人歩きさせる事にもなり、望みと行動が一致していないこと以上にマクロ的には性質が悪い。


合理性という面から見れば「整合的」であることは必須なのかも知れない・・・が、合理的であろうとするするあまり「望み」を「行動」に整合性を装ってしまうようならば疑似科学と同様に、擬似合理という本末転倒な事態に陥ってしまうのではなかろうか。


そんなことを考えると、望みというものはたとえ行動が伴わなくとも持ち続けていたり、表明したりしてもいいのではなかと思えてくる。けして積極的な「良し」ではないにしても・・・
そして、大したことはできなくとも、できることはすればいい。
それは「自分のことは棚に上げて」ということにも繋がるが、それを避けるために偽装してまで整合性をつけるよりはいくらかマシだ。
そこに矛盾めいたものがあろうとも、環境に左右されない「望ましさ」(マクロ的なもの)を「公」とし、環境に左右される「行動」(ミクロ的なもの)を「私」とするような「概念」や「ストーリー」で、個々人の中に並存を可能にさせ、それによって「望み」をつなぎ、生きながらえさせることも必要なのではなかろうか?
そのようなことが可能ならば未来もすこしは違ってくる(望ましさに近づく)様に思う。
少なくともマクロとミクロの矛盾に苛まれて自らの存在意義を保つために無理やりミクロに整合性をつけて社会(マクロ)に復讐(破壊)するといった結論を導く頭でっかちも少しは減るのではなかろうか?