「美しい国」と「憲法」_3

実は憲法(九条など)で謳っている事は、私にとっては「美しい日本」そのものである。
私が安倍総理の「美しい日本」を原理的で混乱を生むとして否定するように、これ(現憲法)は政策を前提として具体的・明示的に示そうとすれば,たとえ多くの人がそれ(平和や不戦)を概念として希求しつつも位置付け、重み付けの「違い」として表面化してくるものなのだと思う。
その結果として、多くの人に「現実」に沿っていないとの指摘を受けるのだろうと思う。


ただ、私はそこには「政策」と「理念」との違いが有ると思う。


憲法は「こうあろう」の共有表明であって、現実とはそもそもが対立するものなのだと思う。
「こうあろう」なんていまどき理想くさくて鬱陶しいかもしれないが、どの国だって憲法も法律もそんなもんだ。


そして「こうあるため」に、この国に住む一人一人が、それぞれに、それを実現・維持するように勤めようとすることで日本人を日本人たらしめるのだと思う。
そして、「それを実現・維持するため」に具体的に「どうして行きましょう」と「あれこれ」試行錯誤するのが「政治」であり「政策」なのだと思う。
「現実に沿っていない」と否定すべきは「政策」であって、「憲法」ではないのではなかろうか。


すくなくとも、単に政策であるべき一党派の首相の観念的な「美しい国」ごときを容認するのはおかしい。
憲法を変えるのは、国民の「こうあろう」が変わったときだ。
「こうあろう」とは思うのだけれどそれは難しいからこっちにしようといって変えるものではないと思う。


私は「美しい日本」という「理念」をそれぞれが、それぞれのものとして持つ事については何の不都合も感じない。
それぞれが「美しい日本」が如何なる物なのかを自問しつづけたらいと思う。(たぶん具体的な答えは見つからず、それを自問しつづける姿やそこからにじみ出る行為の中に美しさがかろうじて保たれるだけなのでは無いかとも思うが・・・)


日本と言う環境に生まれ、日本語を話し、日本語で考え、他から日本人として見られる事において私は日本人である事を逃れる事が出来ない。
だから「美しい日本」として考えてもいいと思う。(だめだろうか?)
仮に「地球人」という概念が有ったとしたら「美しい日本人は地球人のようであれ」とすればいいのではないかと思う。