「美しい国」と「憲法」_2

私は、憲法が現実的でないということで改憲する事には反対の立場である。
憲法は目指すべき理念であっていいと思う。
様々な現実に直面し、その時々の選択にその方向性(ベクトル)が影響として生かされればいいと思う。


かといって、「生存」と言うレイヤーと「現在の環境」を突き合わせてみれば「軍事力が必要」であると言う切実な「具体的な明らかさ」は有ると思う。
そして「経過」(それが妥当であったかどうかはともかく)の中で生み出された「現在の環境」のなかには「自衛隊の存在」や「米国との関係」や「近隣からの脅威」や「軍事的均衡」などが有ると思う。
「経過」が生んだ「現在の環境」を無視する事があればそれもまた、他のレイヤーを無視する事において原理的であると思う。


ただ、そのような「現在の環境」レイヤーは受け入れつつも、「どちらを向いているか」、つまりベクトルが重要なのではないかと考えている。
例えば現在は「自衛隊」も「米国との密接な関係」なども有るが、これらもまた何らかの前提の上に成り立つ「環境」でしかない。
前提が変われば「自衛隊」が現在の自衛隊である必要が無い環境は想定可能なのであって、憲法が謳う「それらが必要でない環境」を目指す「過程」上にあれば、十分「現憲法」は機能的なのではなかろうか?


対立を促進する選択をすればその環境は遠のき、対立を解消する選択をすればその環境は近づく。
対立を解消する選択は「切実」な感情からすれば「ストレスフル」な選択であるから何も無ければ確率的に起こりにくい(エントロピーは増大していく方向に向うから)
確率的な起こりやすさに身をゆだねれば「紛争」も「戦争」も確率的には起こりやすいものなのだろうと思う。


分析的に、合理的に考えれば「そういうもの」でFAでいいのだろうが、残念ながら私は「紛争」も「戦争」も望んでいないから起こりやすさにただ身を委ねるわけにも行かない。
造形物はいつしか崩れるという絶対的な起こりやすさ(エントロピーは増大していく)を知りながら、(カオスの縁のごとく)それに反して何かを作りだそうとするのが人であるように・・・


考えてみれば現状がどうかよりも、この現状が何処に向っているかに対して持つのが「人の思い」なのだと思う。
どんなに豊かでもそれを失っているときには「不安」であり、どんなに貧しくても昨日よりも今日が豊かなら「希望」である。
たとえ「争い」と言う現実があろうとも、明日が「平穏」に向っていればそれは「安心」でもある。
年金問題も信頼に向っていれば安心だが、次から次へと不信の種が出てくるから不安なのである。
死だってそうだ。死の予感は恐れをもたらすが、「今」と言う瞬間に予感も無く死んだところで何の切実さも感じる隙は無い。


幸福感も充足感も安心もみな人の行為を拘束する「切実さ」はベクトル的で、今を切り取った分析的な今(点)に「切実さ」は入り込まず、ただ「そう」であるだけだ。
逆にいえば「切実さ」に左右されたくなければ(もしできるものなら)過去も未来も思い切り捨てて、ただ今だけを受け入れればいい。(それができれば、どんなに楽かとは思う)


聖人ではなく俗人である私は、そのようなベクトルを生み出すものとしての現憲法を理念として尊重する事を今は「是」であるとしたい。