「美しい国」と「憲法」_1

安倍首相の「美しい国」に関する政策は、具体的に提示されればされるほど、その弊害も具体的になりそれが広く知られるにしたがって色あせていくように感じる。


観念的な「美しさ」と言うものが「既に」多様になっている「現実」の中でシステムとして規定することの難しさに直面する。
誰しも、自らの持つ「美しさ」が有り,それを希求する思い(切実さ)は変わらない。
その切実さが「美しい国」を希求するのも判らないでもない。


でも、人それぞれに違う「美しさ」の基準があり、同じ「美しさ」を誰もが共有できるわけでもない。
さらに、あるレイヤー上では美しいと観念したものが、他のレイヤー上では醜くさでしかなかったりする。


人は経験や環境を経て「現実から抽象」した「無数のレイヤー」を概念の数だけ抱えている。
それらは、新しい認識に出会いながら、位置(関連)付けされ、重み付けされ、常に再定義されながら内面化(意識化)されているのだと思う。


それぞれのレイヤーに限定すれば、美しさも共有される事も有るが、その位置付け、重み付けは皆違う。


美しい国」のようなものを現憲法にもあるような「理念」とするならばともかく,政策にしようとすれば、それを具体的に提示することになる。
そして、具体的であろうとする事は即ち、(結果として)その位置付け、重み付けの違いを明らかにする事になってしまう。


現実にはありえない「観念的な限定されたレイヤー」のなかでは「共有」できたものも、そこに位置付けや重み付けが加味されたことで「違い」としとして表面化してしまう。


個の中にあるそれは「バランス」であり「妥協」であり「不純物」であり、そのありかた自体がすでに醜くかったりする。


個の中でもそのようなものがあるのに、現実を相手にする「政策」のようなものは、さらに、これらを内包した多くの個の集まりにおける「バランス」であり「妥協」であり「不純物」であり,そして「醜さ」にならざろう得ないのではなかろうか?


それ(政策)を「美しさ」で語るとき、それは現実から乖離した「限定されたレイヤー」の中での概念的な戯れであり、「観念的な限定されたレイヤー」である事自体を「原理主義」的であるいうのではなかろうか?
その原理主義的なものは常に、現実との間に混乱を引き起こす。


「美しさ」のようなものは「具体的」で「明示的」であればあるほど、もともとあった「美しさ」としての輝きを失ってしまう。
おそらく、「美しさ」はその周辺で愛でる物でしかないのではなかろう。


人にとって大事な「美しさ」でも「美しさとはこうである」という姿勢と「美しさを大切にしよう」という姿勢は全く異なるものなのだと思う。


ただ、普段あまり考えもしない「美しさとは何だろう」と考えさせてくれた事については安倍さんに感謝している。