強制送還

フィリピン人のご一家の件は結局、家族を引き離すことになってしまったようだ。
これも村上春樹さんの言う「壁と卵」の一つなんだろうなと思う。
システム・概念・正論・一般化・抽象
そして国家や法律もその壁の一つだろう。
もともと「人」のための秩序であり、「人」のためのルールであり、「人」のための法であったはずのものであるが、抽象され一般化され概念となり正論化されシステムとして機能している国や法もまた、それがマクロなものであるというだけでミクロに不合理をもたらす。
これは、不法滞在者に寛大な法律ができたとしても、それが法律である以上、それがマクロであるというだけで不合理をこうむる何がしかのミクロな個人は出るだろう。


人が生み出すマクロなものは全てのミクロを救い上げるには常に不完全なものであり、法律もまた常に不完全であり、システムも不完全だ。
だからこそ、ご両親の不法滞在を長期に渡り許すことになり、ますます強制送還を難しくする不合理をも生み出すことにもなった。


そのように不完全なマクロによって不合理をこうむるミクロに、システムを離れた一人一人がどのように関わっていくかが問われているように思う。
なぜならば私もまた、いつでもマクロにより不合理をこうむる一個のミクロに過ぎないからだ。


おそらく、心情的には少なからずの日本人が特に娘さんの置かれた状況には同情するのではないだろうか。
彼らの日本滞在に反対する人であっても、そのような「同情」に鞭打って反対している人も多いことだろう。


彼女が日本にいることはできても実の両親と若くして引き離されるのだ。
そして、彼女のご両親には非があっても、彼女自身には何の非も無いのである。
彼女が家族の日本滞在を主張する仕方に同情を利用しているとの非難も目にしたが、彼女が彼女の思いをどのような手段を使って主張しようとそれは当たり前のこと。
強制送還を妥当だとする意見があるとはしても、彼女を個人的に非難する言葉などあろうはずもない。
少なくとも私たち日本人は個人的直接的な理由で彼らを排除するのではなく、人のために一般化されたシステムに反するから排除を正当化するである。
彼らの滞在に反対するにしても一般論として社会問題として関わるにとどまるのが節度と言うものではなかろうか?


家族というレイヤーはほぼ誰もが共有しているレイヤーであり「家族が引き離される」ということは誰にとってもつらいもので、そのレイヤーを共有するものにとってはそれは自明のこと。
他のレイヤー(この場合は法律)で別の結論に至り、そちらを重視しようとも、家族というレイヤーを共有する限りは
「家族が引き離される」という事実も、そのことにつらさを覚えることも変わらないはずであり「家族が引き離されること」そのものをそのレイヤーの中で正当化するものではない。
そして、それはそこでは間違いなく「非情」なことであり、それを亡き物にすることはできない。
強制送還を非とした者も、是とした者も、システムを共有するものは等しく皆その「非情さ」を抱えていかざるを得ない。


村上氏は常に「卵」に寄り添うという、文学を通して寄り添うという。
私は文学者ではないのでそのようなことはできない。が、少なくとも突き放したり、開き直ったり、割り切ったりはしたくない。