科学について少し

科学を考えようとすると、科学に対する一口にはいえないちょっと複雑な思いがある。


科学には夢があると思うし、科学には可能性があるとも思う。
知ることの喜び、思いがけない驚きもあればコントロールすることの快感もある。
その一方で何か急き立てられ、限定されている気にもなる。
知ることの苦さ、コントロールされることへの不快感。
一つ一つの長所が同時に一つ一つの短所でもある。
科学がもたらす希望が同時に絶望である。
科学の生み出す利便が同時に不便である。
科学はかように是にもなれば非にもなる。
いや是には必ず非を伴うといったほうが良く、選択的に是だけを抜き出すことが難しい。
観念的には科学そのものには是非は無いのかもしれないが、科学が人によって生み出されるものである以上それは技術となり、利用され、その具体的成果物が「是非」から独立していたためしは無く、それらを切り離して論じることも現実的とも思えない。


確かに科学には夢があると思う。
「人類」という枠(客観的)で見れば、今は実現していない「何か」を実現する可能性を未来に開いてくれる。
「私」という枠(主観的)で見れば、身の回りに起こることの「仕組み」をより良く知り、その仕組みを思い通りに「再現」できることやそれらを組み合わせて応用してこれまでには無い「何か」を生み出す感動や喜びや驚き。
「科学」と「技術」が生み出すその「何か」は、いつも人にとってはエキサイティングだ。


科学というものは常に先人が築き上げてきた土台の上に積み上げられるものであり、その積み上げられてきたものを「科学」と呼ぶこともできるし、今まさにその土台に積み上げようとする営みを「科学」と呼ぶこともできる。
抽象の仕方を変えれば、それとは関係なしにそこに一貫している「手法」を「科学」と言っても良いようにも思う。


「科学」といっても、どのレイヤーから科学を見るかでも見方が変わる。


「人類」という枠(客観的)から見ると、先人によって積み上げられた「科学」は、「既存」であり、新しいわけでもなく、無機的で、ただ遺跡のようにそこにあるだけで、「前提」として「現在」を規定するだけのものである。
「喜び」とか「意義」とか「感情」とか、それらを生み出した『人』の「熱意」「葛藤」のようなミクロなものはすでにそこにはないし、ある必要も無い。
実際に人を感じさせる生きた科学的な営みは既知と未知の境界線(既知の最先端)にしかない。


一方で(これも遺跡と同じように)そこにはその時代時代にそれらを積み上げてきた人々の息遣いやドラマがそこにあり、科学を学ぼうとする人(個人)はその過程で先人が味わってきた感動や喜びを後追い体験することができる。
つまり「私」という枠(主観的)では「私」にとっての「未知」が「既知」となることの喜びというものがあり、たとえそれが「人類という枠」では「既知」であり「当たり前」のことであったとしても、「私が知る」事の喜びというものはそれとは別にあり、これこそが「身近な」科学であり、「庶民の」科学なのではないかと思う。
最先端の科学というものも、このような「科学」の裾野を成す「身近」で「庶民的」な「科学」があってこそであり、最先端科学者もその中から生まれるのだと思う。


ただ、なんとなくだがこのような「知ることの喜び」「身近な科学」のようなものの価値やそこへの関心が薄れてきているのではないかと思うことはある。
あまりに「最先端の科学」が専門化し「身近な科学」と乖離しすぎたからなのか、「最先端の科学」を駆使した「成果物」が身の回りにあふれていて一々そこに関心を向けるわけにも行かなくなったのか、人々の立ち居地が客観に振れたことにより「相対化」されて関心を失ってしまったからなのかわからないがそのように感じる。


科学を生み出したものは切実な人の「知りたいという思い」や「知る事の喜び」といった「意味」であるにもかかわらず、客観的に科学を見れば科学そのものには「意味」なんてものはない。
そもそも「科学」に意味を持ち込むわけには行かない。
それ以前に、「最も客観的な状態」は全ての「意味」を排した状態によってしか保障されることはないだろう。


その「最も客観的な状態」を求める「科学」は、皮肉にもまったくもって主観的な喜びや達成感といった「感情」「熱意」を契機として発展し続けてきているのである。


「科学万能主義」というものがあるとすれば、全てを「科学的」(客観的)に見てしまったときであり、そして「科学」をも「科学的」(客観的)にしか見ることができなくなったなら、「科学」に関心を寄せる「意味」も、「科学」を生み出す「意味」も失われてしまうことだろう。
(実際の世界ではそのような極端なことは起こりえないと思うが、そのような観念に支配されることはあるかもしれない)


現在がそのような極端な状態にあるとは思わないけれども、若干そのような兆候(客観的であろうとするがゆえに様々なことに無関心になりつつある、関心に抑制的である)は・・・・感じなくも無い。
そして、そのような兆候に対する反動も感じなくも無い。
この二つが互いに今いる位置で微調整してバランスを取れればいいのだけど、天秤のできるだけ端に急いで向かわなければバランスが取れないかのように自ら自らのバランスを崩して両極化してバランスをとろうとしているような気もする。


おそらく、比較的主観的な立場から比較的客観的なものを見て警戒感を持ち、そのことによりさらに主観的な主張をすることになったり、逆に比較的客観的な立場から比較的主観的な物を見て警戒し、より客観的な主張をすることになったりするうちに互いに「虚像」を作り上げて両極化しているように見えるだけで、実態は誰しもその両方をバランスとともに持っていて互いが警戒し非難しあうほどの乖離はないようにもおもえるのだけれどどうなのだろう。(ごくまれには警戒する必要のあるものもあるかとは思うがその影響はごくごく僅かで、これもまた単に「虚像」の増幅に寄与しているだけにも見えるし)


このような不信の構図はいろいろな場面で見られけど、(私自身も含めて)微調整を可能にする遊び、余裕、曖昧さが「許せない」んだろうなぁ。本題とは関係ないけど。