偶然_過去と今

「偶然」というものは昔も今と変わらず人の前に立ちはだかっていたのだと思う。
具体的な「偶然が見出される対象」はその時代により違うのだと思うけれど、そこに常に偶然を見出していたことは変わらないように思える。
今は規則的に現れていると認識さえている現象も当時の人にとっては単に偶然であり、「そういうもの」でしかなかっただろうと思う。
その現象が起きる仕組みも、それを説明する概念も知らなければ「そういうもの」という以外に語る言葉も無い。
それはその当時の人にとっては「限界」であり、と同時にそれ以上語る必要の無い「世界の全て」であったことだろう。
判っていると認識している事柄の全てが世界であり、それ以外のものは「無い」もしくは考えるまでも無く当たり前な「そういうもの」でしかなかった。
それはそれで「十分」なことだったろう。


すでにわかっているもの以外の出来事はすべて「偶然」であり、もし、当時の人々が「語ることのできない」それら「偶然」を「そういうもの」として気にも留めず、知ろうとさえしなければそれは今も「同じ偶然」であり続けていたことだろうが、人はいつの時代もその時代なりに「偶然」を「偶然」のままにはしておかなかった。


それが進歩の歴史だと思う。


其々の時代に立ちはだかる具体的な「偶然」は、より予測可能な何かに置きかえれているという点では、其々の時代に固有の仮の「偶然」であり、やがては解明され覆される限定的な「偶然」ともいえそうだが、それとは別に一貫して付きまとい続ける「偶然」というものがある様に思う。
解明しても解明しても次から次へと立ち現れるより根本的で普遍的な「偶然」


これは多分、人の知性がフレームワーク(抽象による切り取り)であるがゆえに、「今は」語ることのできないそのフレームワークの枠外に起因する現象は全て「偶然」という姿で立ち現れて来るのではないかとも思ったりする。