偶然_主観と客観

「偶然」というのは、予見できない,決定していないことにおいて主観に「意思」を開放してくれ、その「意思」によって行われた行為を人為的であるとすることはできると思える。
もし「必然」(決定論的)ならば、「意思」の居所は無い。
ことによると、この「意思」は偶然選択されたものの「別名」でしかないのかもしれないが、人(主観)にはそれを区別することはできない。
ただ、人(主観)が何らかの決定を下したという「実感」のみが、それを単なる「偶然」ではなく「意思」によってなされたことだということを主張させるに過ぎない。
そこには人にとっての意味こそあれ、なんら客観的裏づけは無い。


一方、偶然であるということは(主観が確信する意思を介在しない客観がありえるとして)客観においては同じその行為もまた「そのまま」偶然であり、だから無為的とすることができる。
偶然ならば結果を(一意に)決定する因果はもとより存在せず、なんらの「意図」も「意思」も存在しないならば、単なる「偶然」がもたらした結果に対して「行為」をどこかに帰属させること自体も「無意味」である。


「人という存在」自体が偶然の産物で、偶然ゆえに其々が多様であることはあっても、その多様な個性は単に「偶然」であることでしかなく、この其々個々の「事情」を考慮することも「無意味」である。
(もちろん、この偶然はミクロが一意に決定されないという偶然なので、個々が集まった集まり(マクロ)の振る舞いをそのばらつきを相殺した上で確率として、その「因果」を考慮することは「無意味」とはいえないかもしれない。
とはいってもそれを考慮したからといって何かを「意思」でどうこうできるのでないならば、人にとっては「無意味」といえば無意味だけど)