さらに逸脱

これらの「進歩」は全て人の世界で起こることであり、人の世界の現実として考えるならば、必要不可欠な実に凡庸なレベルを維持する役割を担う人が必要不可欠であり、その存在なしに「高度」であることもまた成り立たない。


レベルがどこまで上がろうとも、それを繰り返しても「人が進歩に見出す意味を生み出す構造」はどこまでいっても変わらないが、その一方で人の現実に生み出され、引き続き必要とされる「凡庸」は増え続け、意味から取り残される。


それは、同時にコストでもあり、コストは増え続け、コストを賄わなければならないのもまた人である。


「凡庸」を抜け出すことを「進歩」と観念し、それを「良い」とする二元的な観念は「凡庸」であることに「価値」を与えない。
にもかかわらず、同時にその観念こそが「凡庸」を無くてはならないものとして要求し、しかも確実に凡庸が機能することをも要求するのである。