mixiのアレ

mixiでその規約が変更される事になり、その規約変更をめぐり議論があったようだ。
私も一応mixiのアカウントを持っているが、アカウントを持っているだけで今はログオンすることすらない。
passwordすらおぼつかないような状況なので、気に入らなければアカウントを抹消すれば良いだけなので実質的には関係ない。


でも、この問題の構造には興味がある。


現在までの経過をかいつまんで言えば次のようになる。


mixi側が何らかの理由で十分な説明が無いまま著作権に関わる規約の一部変更を発表した。
それに対し、その規約が可能にするかもしれない「ユーザーの不利益」を危惧するmixiの住民がweb上の様々なところで批判的な反応を示した。
そのような反応に対してmixi側が規約変更の「意図」を説明し、けしてユーザーの不利益を生むものではないとの声明を出した。


簡単に過ぎるがそんなところだ。




規約というのは、もし何らかの事態が発生しそれが裁判にでもなれば大きな意味を持つ。
そして、規約を設けるのは、まさにそのような「何らかの事態」が発生する可能性が想定できるからに他ならない。
そのような「何らかの事態」が起きたときに発生する「リスク」を回避するために規約と言う形で文章で明示し、サービスを享受するユーザーの同意を求め法的な根拠を確保しているのだと思う。


今回の場合でも、批判を受けて出されたmixi側の声明を読む限り、運営の円滑化や新たなサービスの充実のために回避したいリスクが新たに想定されたからmixiは規約の変更を決めたのだろう。
この声明にあるような「具体的事例」だけならば多くのユーザーが今回のように批判的な反応を示すことは無かったと思う。
しかし、この「具体的事例」をそのまま文章にしたのでは「類似の事例」をカバーすることはできない。
創造的なユーザーは創造的な事態を思いつくもので、「具体的事例」とは違った「類似の事例」を全く考慮に入れないわけにもいかない。
結局「具体的事例」はあくまで「部分」でしかないのでmixi側の「意図」したリスクヘッジは達成されないということになるのだろう。


「全体」を表現しようとしたら、これら具体例に共通する何かを抽象し、抽象されたモノに対処できるように文書として明示しなければならない。


抽象には捨象がつき物で、mixi側の都合で(重要で無いとして)捨象したものがユーザーにとって重要であることもある訳で、そのあたりのバランスが悪かったり、仮にバランスが取れていてもコミュニケーション不足で合致点が得られないとトラブルになったりするんだろうな。
今回もそうだったのではなかろうか。


抽象され明記された文章は「何らかの事態」が発生して争議になれば、そこに書いてあることこそが重要なのであり、必ずしも「意図」は反映されない。
契約というのは口約束も契約とされるが、それを証明することは難しい。
まして「そのような意図は無い」と今はいっていても、いざ争議になったときに文書として記述されていない過去の「意図」を証明するなどというのはさらに難しいことになるだろう。
mixi側がその「意図」を裏切らないということをユーザーが「信頼」するのは、今の懐疑ベースの性悪説的グローバル至上主義的社会では「悪い」ことにさえカテゴライズされかね無い。
それに、信頼ベースならばもともと「規約」など必要ないはずだからね。


とはいっても、最近は病院で治療を受けるときも、役所で情報を得るときも、危険なアトラクションに乗るときも同じように何らかの文章に同意を求められ何をするにも規約が顔を出すようになっているから特別というわけでもない。(以前は金銭消費貸借契約ぐらいしか規約など気にもしなくて済んだのにね)
契約社会が隅々まで浸透すれば、あらゆることがこのような問題を含み、そこに潜むリスクもまたより顕在化し、先鋭化していくことになるのだろう。


でも、これらは実は「自由」(選択肢を得ること)であろうとすることの代償でもあるんだよな。


「信頼」とか「モラル」とか「常識」といった「自由を阻害する」ように見えたものが社会のベースから姿を消した時に必然的に現れる「自己保全」「リスク管理」の手段なのだろうけど、私などはこれが進めばこれはこれで「すごく」不自由だよな・・・なんてことをよく思う。


アメリカや日本の現状をみているといつか方向性が変わる「変曲点」が近い将来訪れるのではないかとひそかに思ったりもしているのだけど・・・変な形で出なけりゃいいけどなぁ・・・。