このように現実を認識している自分



海上自衛隊イージス艦「あたご」と漁船の衝突事故のニュースが流れたとき、防衛省にとってこの時期にイージス艦が関わるような事故は困るだろうなと思った。
それは、防衛省が進めている米軍との連携の中で給油問題でもMD戦略でもイージス艦は重要な位置を占め、その象徴的な存在でもあるからだ。
マスメディアが黙っていないだろう事は容易に予想しただろう。


イージス艦という象徴的なシンボルに、どのような形であれ、悪印象が付いてしまうことはできれば避けたいというバイアスがかかるのではないかなと・・・


もし、そのようなバイアスが掛かっていれば、様々な場面で躊躇いが生じるだろう事は予想できる。
その躊躇いは「判断の遅れ」を生むだろうし、各階層での報告・伝達に事実以外の立場から来る「価値」がまぎれやすくなり、当事者には「意図」がなくとも、結果として「意図」があったかのように情報が変質していくことにもなるだろう。


石破防衛大臣は漁船を確認した時間が二転三転したことを「隠蔽」ではなく、情報が錯綜していたという。
情報が錯綜していたというのはその通りだろう。
しかし、なぜ「2分前」などという間違った情報が伝えられてしまうのか、なぜ「照明の色」が周辺海域にいた漁船団の方達の証言と食い違ってしまうのかということだ。
たしかに「錯綜」といえば「錯綜」だが、「錯綜」であることが何かを免責するものなどではなく、なぜ、「錯綜」がこのような自己にとって都合の良い傾向を伴って現れてくるのかという問いに対して「隠蔽」が予感されてしまうのだと思う。


ちょっとココまであえて「バイアスが掛かっている」という不確実な「仮定」を根拠に話をしたが、もしかするとそれは「事実」では無いかもしれない。
しかし、恐らく多くの人は私も含めて「あたご」の乗組員や防衛省内でそのような心理が働き、事実を改変する力が働いただろう事を予想しているように感じる。


つまりそこにあるだろう「空気」を読んでいて、「分かって」いる。



敢えて仮定の話、予想の話を持ち出したのは、これが結構「不幸」なことだなと思ったからだ。
「そんな馬鹿なことは起こるはずが無い」という観念が優勢を占めるほうが望ましい。
が、「そのようなことが当然起こりうる」という観念が「自然に」優勢を占めてしまうことが不幸だと思ったのだ。


とはいっても「だから、そのように思ってしまうのは間違っている」なんて話ではない。
大体そんなことを言っても何の効果も期待できない。


事実をそのように解釈するほうが「整合性がつきそうだ」と思ってしまう「経験」「環境」の中にいる、つまりそのような「現実認識」を共有しているということが不幸だなと思うのだ。


私達の周りにもそのようなことは十分起こりうる、だって偽装問題なんてみんなそうじゃん、私の職場だって、私の地域だってそういうことはあるし、だって人間ってそんなもんでしょ、だから自衛隊内部でそのようなことが起きてもおかしくなんか無いんだよ。


なんて現実認識に浸っているのかもしれない。


ただ違うのは、「私達のそれはたいした問題ではないが、彼らのそれは問題だ。」ってところぐらい。


本当は私達のそれも彼らのそれもどっちもありがたくない。


だれにとってもありがたくもない事を、きっと回りも「そう思っているはず」だと空気を読み、そのだれにとってもありがたくない「現実認識」を当然のように動かしがたい事実のように共有し、そしてさらに強化しあっている。


ちょっとばかり他人を「懐疑」ではなく、「信頼」して別の空気の読み方をすれば変わるのかもしれないが、怖いんだなこれが・・・(なんて現実を認識している、懐疑にとらわれた私がいる。)