三浦被告の逮捕

当時の異様な盛り上がりを思い出す。
数多くある事件のうち、センセーショナルに個別の事件に焦点を当て視聴者の関心を集める。
ワイドショーが現在の路線を確立した草分け的事件だったように思う。


それは置いておくとして
町村官房長官は捜査協力要請があれば応じる用意があるようなことを言っていた。
日本政府の立場はこれでいいのだろうか?
と思った。


三浦被告は日本ではなくアメリカに入国して逮捕された。
そして、アメリカで起きた事件をアメリカの警察当局が起訴し、アメリカの司法当局がアメリカの法制度で裁くという流れになるのだろう。


日本では時効でも、アメリカでは彼にかけられた容疑(第一級殺人)には時効が無い。


日本では一事不再理でも、アメリカでは判決があったわけではない。


報道では「論理的には可能だが、他国でいったん無罪を言い渡された事件を再度立件しようとするのは異例だ」とも言っていたが、少なくとも論理的には可能なのだろう。


私はそれは異例ではあってもありうると思う。(アメリカは平気で自国民を保護するために他国の内政に干渉してくるが・・・)


ただ、日本では最高裁の判決まで経て「無罪」となった以上、彼は間違いなく「無罪」であり、この事件は時効である。
それがかりに真実ではなくとも、心象として疑わしくともそのことに変わりは無い。
仮に、日本で後から新事実が見つかろうとも刑事責任は問えない。


この制度が妥当なのかどうかの議論はあってもいいのだけれど、「今」の日本ではもっとも「妥当」であるとして、そのような制度になっている。
今妥当である制度化された法律を尊重し遵守するのが法治国家のありかただ。


それは日本の姿勢であり、政府は積極的にこの姿勢を貫く立場にあるように思うのだ。


日本の司法制度にのっとり「無罪」を勝ち取った日本国民が「姿勢の違う他国」の制度ゆえに「不利益」を被る可能性のある「情報」を政府が何の躊躇もなく提供しようとするのは何か違うのではないかという気がして仕方が無い。
国会議員が立法の立場で現行の法制度に疑義を表明することはあっても、行政の立場にある内閣の官房長官が日本の法が拠って立つ「価値観」になんらの「自負」も「尊重」もないというのはなぁ・・・なんて法律の素人は思ってしまうのだけれども司法関係の専門家の方はどのようにこの件を捉えているのだろう。