無駄の重要性

「無駄は大事だ」なんて思うことはよくあるけどこれはなかなかやっかいだ。


爆笑問題の「日本の教養」の新年会スペシャルの再放送があったので見たのだけど、そのなかで野矢教授が「無駄の重要性」を説いたあとに、すかさず爆笑問題の大田さんが学者の仕事そのものが「無駄」を「無駄」でなくする仕事ではないかと突っ込んでいた。
それが意味するところを熟知している野矢教授の困って口をつぐまざろうえない姿が何とも印象的だった。


確かに「無駄」について語るとはそんなものだ。
「無駄」の有用性を語ることができ確かに「そう」ならばそれはもはや「無駄」ではない。
今は無駄に見えることでも将来役に立つなんて言えてしまう(確か)ならば、それはもう「無駄」ではない。


「無駄」という概念はあるにはあるのだろうが、それは「(提示可能な)『有用』では無い」というような「否定」の表現なので『有用』が提示されて初めて『そうでないもの』として現れるのであって、「無駄そのもの」を具体的に提示するのは無理なんだよなぁ。


これはなんか「既知」と「未知」の関係に似ている。
認識されない「未知」を「語りえぬ」のと似ている。


なんで「無駄が大事」なんて「直感」が出てくるか?
「過去」のある時点で確かに「無駄」であったことが、後々有用であったという経験があるからと言うことはできる。
でも、それさえも有用になることを前提としている以上、有用のために(現在において)無駄が必要だとは言えても、無駄そのものが大事だということにはならない。
そして、そのような「有用のために無駄が大事」ということを教授が言いたいわけではなく、そのような前提なしに「無駄は大事だ」と言いたかったのだろう・・・が・・・「なぜ」と問うことを許されない。
そして、「なぜ」を問い続けるのが学問。
無駄が大事ならば「なぜ無駄が大事か」を問うてそこに答えを見出してはいけない。
そうかといって学問を否定すれば良いのかといえば、そうはいかない。
なんらかの理由があって学問を否定するとしたならば、それは「有用」だからそうするのである。



でも、私も「無駄」には惹きつけられる。
同じように「未知」にも惹きつけられる。


「大事」な理由なんて言えないので、しかたが無いので試しに少しだけその周辺をうろついてみる。


・「有用」は「ありよう」を限定し、目的を規定し、その有用の中に可能性が閉じてしまう。
(それに対して「無駄は」・・・・と言いたくなるけど言ってしまえば「有用」に絡め取られて周辺をうろつくことができなくなるので言わない。)


・「今」「現在」有用性を見出せない無駄の「ありよう」はある。
その有用性が「未知」なものだ。
(それに対して「でも将来は」・・・とも言わない。)
有用は世界から隔離され、フラグメント化を促す。


・「有用」はそれがあきらかとなると、同時にそれ以外の「無用」を確定する。
無駄と無用の違いは・・・


・「無駄」への志向は可能でも、「無駄」への手段も到達も無い。


・「無駄」は全ての有用に先行している。(有用は無駄から生まれる)




どれも、ダメだな。
書かなくたって頭の中には「有用」が浮かんでいる。
伝えるために自分の「無駄」を有用化(明確化)して犠牲にしている。
犠牲の報酬として「何々のようなもの」として伝われば、少しは救われるけど・・・伝わらないだろうな。

これもまた、言葉に(明確化)した瞬間に消え去るものの一つか。
ただ、漠然とした概念のまま持っていて、誤謬が許容され漠然と伝えることが当たり前ならば共有・共感もまた可能なのだろうに。