現実について



私が日常生活で「そうは言っても現実は」とか「現実を見ろ」(これは殆ど言うことは無いけど)なんて言うときは、誰もがそのような「現実」を動かしがたい事実・真実として受け止め、だれもがそれを事実として受け止めるであろうことを前提にしているようなところが在る。


「現実」っていうと何かしら「真実味」が漂い、無視できない客観的な確からしさを感じさせる。


でも、人(私自身でもいいが)がどのように現実を認識しているかというのは、むしろ逆に主観的なユニークさを映し出すことになるのではないかとも思ったりする。
もし、ここで「私」を「私達」に置き換えれば、「私達」のユニークさということになる。(とはいっても私が認識する「私達」ということにはなるのだけど)


ありのままの「現実」はきっと何も語らないし、それが「ただそうであるだけ」で、まして「楽しい」事であるわけでもなく、「つらい」事であるわけでもなく、「向き合わなければいけない対象」でもない。
そして、なにより、それが特異的に差異を持って注目されなければならないものでも無い。
(日本人の私的に言えば「無」かぁ。)


そして、本来ならそのような想像することによってのみ可能な「ありのままの現実」であることにおいてのみ、そこに「真実性」を予感する事が許されるのだと思う。


でも、もし私が何かを語ろうとしたならば「ありのままの現実」の「何か」に関心を持たなければ始まらない。
この時点で既に「ユニーク」である。(客観的ではなく主観的である)


「理想」に対して「現実」を持ち出すときは「願い」に対して「叶わなさ」をあてがっている。
「叶わなさ」は「願い」という価値観(情緒・感情)がなければ現れないだろう。


「そうは言っても現実は」とか「現実を見ろ」なんていうときは、向き合わなければいけない対象ですらない「ありのままの現実」から、何らかの理由で「意味の在る現実」を抜き出し、その抜き出したそれに「是」(なり非なり)を与えることになる。
「何らかの理由」とはやはり価値観であり、だからこそ是非を与えることができるのだろう。


「現実は厳しい」なんて言えば、それはそのまま価値観だ。


こんなに価値まみれなのに、普段生活している中で「現実」が真実味・客観性・無味性を伴って現れるとしたならば、それはつまりは私の生活範囲を『私達』として認識し、そのユニークさを共有している(と認識している)ことによって、『私達』のユニークさに無自覚でいられるからなのでは無いか。


だとすると、このような見えにくいユニークさ(隠れた価値観)を知りたければ、「私」や「私達」がどのような「現実認識」を持っているかを分析してみれば分かるのかもしれない。
「どのように現実を認識しているか」こそが私や私達が持つ「主観的な価値観」だと。


「認識された現実」は、「ありのままの現実」と認識過程で追加されるユニークな「価値観」との和で、さらに「ありのままの現実」は「無」であるとすると


|「(認識された)現実」|≒|「ありのままの現実」+「価値観」|≒|「価値観」|


そして、もし(乱暴にも)この価値観が情緒や感情が要請する願いや好ましさ、つまり「理想」であるならば人が言う「現実」は単に「理想」の仮の姿(対立などではなく符号を変えて言い換えただけ)・・・なんていうのは・・・どうだろう。
現実に向き合うとは、つまりは自らが隠し持っている理想に向き合うことだと・・・だめかな。


隠し持った理想は切り捨てても切り捨てても、次から次へと「現実」としてたち現れ、そして、人が認識する生き物で、現実を現実として認識している限り、そこからは逃げられない っと。


ちょっと内田先生のblogにフックされてつい書いてしまっただけなんだけどね。