結論なんて無いが_2

たとえ言葉を知ってはいても、すべての人がこれら同じ明確な一つの単語のバックグラウンドを持つこと、共有していることを期待することはできない。
関心の向きによっても、経験の道筋によっても、環境によってもその種類も多寡も変わってくる。
いくら辞書が便利でも、リンクが便利でもそれを手がかりに効率よく利用することはできても、そのバックグラウンドを収集し大量に抱え、さらにそれぞれが語る表現から何かを統合的に抽象しなければその概念を「(より)間違いなく誰にでも共有すること」などできない。
でも、合理的(というよりも効率的といったほうがいいか)な人間であればあるほど「関心」の無いことにはそのような時間を割きはしない。


人は様々な言葉を知識として知っている。
そこには量的に多くを知っている人も少ししか知らない人もいる。
さらに、それぞれの知識はそれぞれの「仕方」で知られている。
でも、それぞれが持つ概念を同じ「仕方」で知っているわけでも無い。
知っているはずの概念や言葉が、別の「何々とは何々のようなもの」に出会うことで自分の「概念が更新される」ことなども毎度のこと。


だからといって、その「仕方」を共有化するために、さらに言葉を細分化して明確化すれば済む問題でも無さそうだ。
細分化された言葉もまたその言葉の持つ概念を浮かび上がらせるために大量のバックグラウンドを必然的に抱えることになる。
この「発明」された明確に細分化された言葉はより違いを浮きあがらせはするが、共有にはハードルが高い。


細分化された言葉は、細分化される前の元の言葉で「漠然としたもの」を共有できるくらいにまで掴んでいて、それ故に新しい言葉を作り出す動機を十分持ち合わせた限られた者達(領域的にも、能力的にも)の間だけに便利なだけなのではなかろうか。(専門の分化)


そのような分化が進んで、それをがたとえ仕方が無いことではあっても、人の世が持つ「関連性」はこれら分化された専門領域を「独立」に成り立たせてくれるほど都合よくはできていない。


つまりは物理学者であると同時にその実現者である技術者であり、技術者であると同時に真理を探究する哲学者であり、哲学者であると同時に決定を下す政治家であり、政治家であると同時に生活者であり、生活者であると同時に・・・・・・であることによってしか「間違いなく誰にでも共有する」という当初の目的は達成できそうもない。


「間違いなく」と「共有する」はもともとあまり相性は良くないのかもしれない。


そのうえ「互いが理解しようとする」意識が無ければ、人の「知」や「理」は居場所がなくなりそうだ。