結論なんて無いが_1

概念を伝えるのは簡単なように見えるけれども結構難しい事だなと思う。


人は合理的であればあるほどその概念を明確に規定しようとする。
「何々とは何々である」と


おそらく、より「間違いなく誰にでも共有」できるものとするために・・・


でもそのように明示性を持ったそれは「語」であったり「言葉」であったりするのだろうが、それがすなわち概念そのものとは言い切れない。


明確化できなければ合理的ではないから「語」や「言葉」にのみ焦点が向けられることがあっても、それがさらに進んで「明確化できないものは無い」と同じ扱いを受けることがあっても、のどに魚の骨がつかえたような伝え切れなさが残る。


それは簡単に「何々とは何々である」と表現できるほど概念そのものは明確ではないからだろう(表現してみてもそれがそうでないことに直面してしまう)。


それではそれらを表現し、伝える手段を持っていないかといえばそうでもないようにも思う。
人は時々「何々とは何々のようなもの」のような表現や比喩を使ってそれを伝えたりする。


一対一の対応ではなく多対一の表現で。
そのとき表現したものは、そのものではなく、その概念の一部でしかない。
もっと正確に言えば、表現したものの一部が、その概念の一部であると観念していることを伝えようとしているにすぎない。
しかし、それが確かにそれと関連していると(観念していることを)伝える方法だ。


もし一つの「何々とは何々のようなもの」だけならば「何々とは何々である」とそれほど変わらないかもしれないけれども、様々な少しずつ違った「何々とは何々のようなもの」といった事実認識の中に含まれる「何かしら共通するもの」が寄せ集められることで「おぼろげながらに」その姿が見えてくる事がある。(もしかするとそれは「何々とは何々のようなものではない」という形をとるのかもしれないが。)
そんな伝え方は可能なのだと思う。


でもこのような伝え方には脆弱性もある。
一部以外の部分はその概念とは直接関係ない付属品に過ぎないので、意に反してそちらに関心をもたれてしまえば、その概念は誤って伝わってしまう。
しかも時間はかかるし手間もかかり、歩留まりが悪い。
いくつもの表現を受け入れ、その中に僅かに見え隠れする共通する漠然としたものを抽象しようとしてくれる相手の辛抱強さが必要だ。
「互いが理解しようとしている」と言う前提が無ければ成り立たない。
(もちろん伝える側も「よりその概念を抽象しやすい題材(表現)」を用意する必要も在る。)


勝ち負けで相手を打ち負かす「対決」の構図のなかでは「批判」の対象にされやすい付属品が満載されているのでディベートなどでは自分の都合の良い「関心」に「すり替え」る事も容易になる。
「決定」「選択」を必要とするために「関心」の奪い合いになりやすい政治的な目的の場にはきっと居場所は無いのだろう。
「今」何かをしなくてはいけない今の政治家や技術者にはそのようなことをしている余裕も暇も無いのだろう。


ただ、よくよく考えてみると、概念を表す「単語」があって、「何々である」という部分にそれを使用して「何々とは何々である」形式で「明確に」「端的に」表現できても、その「単語」そのものもまた多くの「何々とは何々のようなもの」から抽出され概念化されたものならば「何々とは何々である」という明示性は「何々とは何々のようなもの」といった漠然としたものに結果的には従属することになってしまうようにも思う。


おそらく殆どの概念を示す「単語」がいくら一つの語で端的に明確に表現されようとも、その明確に見える単語もそのようなバックグラウンドを大量に抱え込んでいて、それら大量のバックグラウンドによって「たよりなく」浮かび上がった明確ではないもの(でも確かにあるもの)を「明確な語」で代表させたものでしかないのではなかろうか?(キリスト教のように神が最初に言葉を用意してくれていれば少しは気が休まるのだけれど・・・)