「平和は闘いだ」について

この前たまたま爆笑問題の「日本の教養」file023「平和は闘いだ」という番組を見た。
紛争地域で平和活動を行っている東京外大の伊勢崎教授との対談だ。
アフガニスタン軍閥武装解除に奔走した人として、何度かメディアで取り上げられたこともあるので知っている人も多いと思う。


放送は1/15だったので今そのことを書くのも情報的には賞味期限切れなのかも知れないけれど、しばらくたった「今」思い返してみても、まだ強く印象に残っている事があったので書いてみる。


それは紛争で多くの犠牲者を出したシエラオーネの合意に関するエピソードで、その合意に至る過程で多くの50万人(推定)もの住民を殺害した側の権力者を副大統領に据えたことが話題になったところ。


混沌を秩序立てることの困難さ、理不尽さを思い知らされる。
善悪さえもが混沌に巻き込まれた場における究極の合理主義。
「情」を踏みにじりながらも、結果だけは出すという手法。
経緯をぶった切り現在にのみ焦点を当てた手法だと切り取ることもできそうだ。


「平和」を「維持」することとは別の、「平和」のあり方がそこにある。


既にあるものとしての「紛争」「混沌」は「その場の善悪」や「その場の正当性」を持ち込めば持ち込むほど、それが譲れないものであればあるほど、そしてそれが「切実」であればあるほど、その混乱の度を増していくという事がある。
そこに横たわるのは「どのような善や正当性もあろうとも、それを続ける限りどちらかを葬り去るまで殺し合いは終わらない」という冷徹な「道理」がそこにある。


本当に理不尽な受け入れがたい道理ではある。


そして、そのような「情」や「経緯」「価値」を差し置いて「冷徹」さで混沌を断ち切るには、悲しいかな「力」のサポートも不可欠であった。


とはいっても、この「冷徹」さが必要とされるのは「人の命が失われること」を欲しない多くの人々に共有される「情」「価値」があるからこそであり、合理主義により切り取られた「この価値のレイヤー」の上で「確かにそろばんが合う」からである。(もちろん、マクロ的には勘定が合ってもミクロ的には理不尽な勘定である。)


もし、本当にあらゆる「情」や「価値」を廃して「冷徹」に振舞うならば分析はしても、起こるべきことは(例え結果的にわが身に降りかかろうとそうでなかろうと)あるがままに放って置くはずである。




このような「冷徹」さや、「平和維持活動」が「力のサポート」を必要とする「事実」は、人によってはきっとアフガン・イラク戦争、そしてテロとの闘い、そしてそれをサポートしてきた日本の「国際貢献」、しいては憲法改正、等々の論拠にも適用したくなるだろうなと思う。


でも、私は結果的にアフガン侵攻、その延長線上にあるイラク戦争、そしてその文脈で語られる「テロとの闘い」は「混乱の度を増す」側に作用する「当事者としての善悪、正当性」(価値、情)により駆動されたものだと思う


かなり感情的なアフガンへの「報復」に始まり、情の最たるものである「欲」や「恐怖心」によりイラクに手をつけ、それらの当事者としての情や価値が混沌を生んでしまったもののように思う。


そのような思いを私に植えつけるのは
『「人の命が失われること」を欲しない多くの人々に共有される「情」「価値」』
つまりは「大儀」を得るために「情報」を「偽装」したこと。
事実を糊塗してまで進めようとした動機にアメリカ(ブッシュ政権)の「当事者としての思い」(情、価値)が色濃く反映している様に思えること。


もし、アフガン・イラク戦争およびその後のテロとの闘いに上記のような「紛争解決の冷徹さ」が適用されるなら「アメリカや先進国はこれまでのテロや9.11等の一切を棚上げし、包囲網を解きなさい」「イラクやアフガンそして周辺の中東武装勢力はコレまでの宗教的対立やアメリカおよび有志連合による介入の歴史一切を棚上げにしなさい」ってな事になるのではなかろうか?


理不尽だよね。
どちらかに正当性があるはずだと思うよね。
日本人ならば『テロは人道上許され得ぬ非道』であることはなかなか譲れないでしょう。
私も感情や本音を探っていけば許せないことが沢山ある。
だってそれにより無実の人々が殺されたのだから。


でも、混乱に大鉈を振るう『力』による「必要とされる冷徹さ」はこのような当事者がかかえる「理不尽さ」そのものを標的(前提)とした「冷徹さ」なんだろうなと思う。


このことをもって「経緯を廃するべきだ」ということを言いたいのではなく
『紛争解決や平和維持のために同じ「力の冷徹さ」を適用してもその前提が満たされないと混沌を収拾する「結果」はなかなかついてこないのではないか』
ということ。


三者的に紛争を収める国際平和維持活動にも「力」(武力)が必要であるとの文脈で『国際貢献として語られるテロとの闘いへの参画の正当性」は成り立たないだろうなということ。


国際貢献」を理念をかなぐり捨てて経済同様に「投資」やその文脈での「国益」のような形で具現化しなければ議論が成り立たない場なら関係の無い話(紛争の解決は二次的なもの)だけど、それなら「血を流さない」や「エコノミックアニマル」なんて言葉に過剰反応する必要も無い。


つまりはその通りなんだから。


あくまで、この番組で議論され、表に表れたシエラオーネの現実を、国際貢献や平和維持活動に当てはめて、そのフレームで平和主義者に突きつけられる『矛盾』を対象にした話でしかないし、「力を必要とする」であろう第三者的に紛争を収める手法に日本がどのように関わるかという課題は残るのですが・・・(私は違った「役割」があってもいいとは思うのですが、その理念に沿った役割において、軍隊でなくとも命のリスクを日本人が負うことをどう考えるか、日本人が危険地域で無抵抗に命を落とすことをどう評価するかは避けられないだろうと思う。)