久々に

以前、社保庁年金問題に関連して「国は責任を取らない」というエントリーを書いたことがある。
どんなに政府が口約束してもできないことはできない。
ここに至ってはコレは前提とするしかない。
やはり、市民がある程度手間やリスクを負って監視していく体制が必要になってくるんだろうな。


ただ、4割近くの特定が不可能というニュースにはさすがに頭がくらくらする。
特殊法人削減への各省庁の対応を見ていれば、このような身内の利権への執着は社会保険庁だけに特異である蓋然性は低そうだしね。
不合理ではあるけれども、積み上げられた負債の責任をどこに帰属させるかはやはり難しいことで、地道に続けていきつつ、現在その被害を受けている人をどのように救うのか、現在起きていること(無駄な特殊法人等)が将来の負債にならないようにしていくことを重視したほうがいいのかもしれない。


ところで厚生労働大臣だが、やはり「元本保証」のようなことを口にしながら、結果として損失が明らかになったのなら、まず、その軽率さを謝るのが筋だろう。
民間を指導する権限を有する立場であることを考えると、示しがつかなくなる。


しかし、いつから日本でも「謝ること」がこんなに難しくなったのだろう。
「謝ること」=「責任を認めること」
はあまり変わらないようだが
「責任を認めること」
の意味が変わってしまってきてるのだろうな。
なんとなく大統領選直後の「ごめんなさい」というエントリーで取り上げた「SorryEverybody」というサイトのFAQにあった言葉を思いだす。
Q:Don't you understand that an apology is a sign of weakness?
A:You are free to think so; we are of the opinion that the willingness to apologize is a sign of courage and strength.
有る意味では競争という前提からは必然的に導き出される結論なのかもしれないけど・・・。
事が大きくなってからにっちもさっちも行かなくなって仕方なく謝るのは無様だよな、そこには情もなければ理も無い。


合理的であってほしいところに情が持ち込まれ、情があってほしいところを合理的に処理してしまっているんじゃなかろうか?
この組み合わせほどeasyなものはないけど最悪の組み合わせだよな。


謝る謝らないが引き起こす問題とは別に「できない」のに「できない」とは言い難いことっていうのもあるとは思う。
真実は「できない」ということであっても「できない」と明言してしまうことで修正の効くことも修正が効かなくなったりする事があるからだ。
結果をWORSEからBETTERなものにするために虚言によって「泥をかぶる」ことが必要になる事もあると思う。
このような芸当ができないと(つまり面の皮が厚くないと)政治家など勤まらないだろうとも思う。
しかし、コレは結果が伴わなければならないし、保身や利己的であったりすればすぐ化けの皮がはがれる。


厚生労働大臣のなんか他責的な発言を聞いていると・・・・どうにもコレとは程遠いように思えてくるのだが


そういえば大阪府知事選に立候補する弁護士さんも前言を180度ひる返しっていたが、どっちなんでしょうね。