自己責任と自業自得

これまでにも何度か「自己責任」について考察してきたけど、今の時点でのまとめ的なものとして書いてみようと思う。(まだ考え続けるつもりですが…)


これまで「自己責任」と言う言葉の遣われ方を見てきたが、経済的な使われ方以外では、単に「自業自得」の置き換えのよう使われること多いなという言う印象がある。


最近はもうそのように定着してしまったのだろうか。
そこには、その前提となる「積極的な契機」はすっかり影を潜めてしまったようだ。


私は最近この言葉を使いにくい。


確かに、概念の文化的ベースが定着していなければ、本来の言葉のニュアンスを掴むことは難しいのかもしれない。


もともと私には自己責任という言葉に何か他人を非難するようなイメージはなく、自分が行動を起こす前の心構えとして自由を大事にするものなら当たり前のこととして内在しているものだと言う感覚がある。


ただ、「自己責任」と言う言葉が使われる前提として、その行為の「是非」(善悪)が前もって決まっていないと言うことがあるように思う。
さらにいえば、そこにも前提があって「是非」(善悪)を敢えて事前には決め付けないようにしようとする環境があるとも思う。


人の意思によって引き起こされる行為とそれによってもたらされる結果に、因果関係を見がちな文化と必ずしもそうでない文化の違いなのか、そこら辺はよく分からないけどそんなものも有るのかもしれない。
ただし、これは「是非」が明文化された「法」ではなく、それ以前の倫理的な「是非」の領域での話。


前もって因果に基づき「是非」(もしくは善悪)を用意して、未然に間違いを防ごうとする社会(事前的な是非)
(だから自業自得になるのだろう)

何か行動を起こした結果がもし思わしくなかったのなら、その行動が「非」であったからなのだろうとする社会(事後的な是非)
(だから自己責任になるのだろう)


「慎重な社会」と「積極的な社会」


この二つの社会の違いはもしかするとそのまま「日本の仏教」的なスタンスと「プロテスタント」的なスタンスの違いそのものなのかもしれない。(カトリックはどうかイメージできませんが中間的?)


もともと外来の概念だから、その概念が機能する環境と言うものがあって、そのような社会的な環境、個人の思考のベースがそろって初めて本来の「自己責任」と言う概念を可能にするのだろうと思う。


恐らく、これらの違いはさまざまな思考や行動の違いとして現れるだろうし、さまざまな文化的な誤解の原因にもなっているのだろう。


「間違い」に対する許容度にも違いを生むかもしれない。
ルールをより価値的な「善悪」にとらえるか、もっとシンプルに「手続的」にとらえるかの違いも生むかもしれない。
上の二つから「再起」を容易にするかしないかにも関係するかもしれない。
「事後法」に関する見解の相違にもなっているかもしれない。
「多様性」が生まれやすいか生まれにくいかにも関係するかもしれない。
アメリカ人が日本人を「シャイ」とする一方で、日本人がアメリカ人を「傲慢」とする根底にもそんなところがあるかもしれない。
日本人にとっての「しかたがない」(諦念)も、因果とともに在るという日本人の思考ベースがあればこそであり、それがアメリカ人に理解されないのも当たり前なんだろうとも思う。


とはいっても、この辺りのベース的なことはごく深層に思考停止状態で当たり前の事としてあるだけで、その上層には様々な個々の経験に基づく何層もの独自の層に覆われているだろうから、あくまで「傾向」として見るしかないのだけれど・・・


いずれにしても、日本人が日本人社会で日本人の思考のベースで話をしているという前提が共有されていれば「自己責任」を「自業自得」の代用として使ったりしてもそれほどの解釈の行き違いは生じないかもしれないが、今後グローバル化がますます進み、それと同時にさまざまな言葉や概念が輸入されると、そのような前提は共有されていないという事は意識し他方がいいのではないかと思う。


ましてグローバルスタンダードと言う言葉が示すとおりそれがスタンダードである限りは、当然そのスタンダード側のベースが共有されているとみなされることを覚悟しなければならないだろう。