先天的に頭でっかちであること

私は十分頭でっかちである。


頭でっかちであるからこそ、頭でっかちであることによってもたらされる不都合を常に思い知らされている。
思い知らされているからこそ、そのことを無視できないのだ。


そして、理屈ではない何か、私には知りえない何か、その沈黙すべき語りえぬ何かを「無い」とすることだけはできないと言うことの重大さに打ちのめされる。


言葉となったとき、何かを捨象していることは、すぐそれと分かる「欠損感」によって明らかなのだが、けして捨象している何かを説明するなんて事はできない。


ただただ、それら「何か」を、それが「何か」でしかないことを理由に葬り去ることの不遜さに恐れおののくのだ。
なぜならば、それにより不都合を思い知らされることになることを既に知ってしまっているからである。


そして致命的なことに、「何か」を「無い」とすることが「現実」であるなどと言うことにはならず、「現実」と呼ばれることの中にこそ、その不都合が現れるということだ。




そして、そのことを、そのままただ受け入れるということができないことにおいて「十分頭でっかちである」と認めざるを得ないのである。


ただ救いなのは、それは私だけでは無いということを理由も無く信じられることだ。