良心

あらゆる価値を貨幣価値に置き換え可能であるという理想はやはり理想であって置き換えの効かない価値はあると思う。
ただ、それが人々の中にはあっても、経済理論のレイヤーでは数値化できないから「無いもの」として扱わざるを得ないだけなのだと思う。(関連エントリー:「価値の公平性」)


神の見えざる手は万能ではなく、現実の需要供給の交換レートは必ずしも妥当とは思えないし、妥当なところに収束するようにも思われない。


おそらく神の見えざる手は「神」(恐れや畏怖)を心に蔵し、良き事を探求する動機を秘める人々の間でしか作用しないのではなかろうか。
人にとって良き方向に修正され、そこへと収束していくという期待は(それが何であるかを明確にできずとも)良き方向を「恐れと畏怖」を持って信じ続ける人々の間でしか作用しないのではなかろうか。
アメリカ流のビジネスにおける「公正」もそのような契機が無ければ生まれないのではないか?


そのようないわゆる「良心」と言われるものが無い合理主義は人をも合理的に抹殺する選択肢を排除しないだろう。