格差そして「飢餓・貧困」

話は違うが・・・
日本で問題となっている「格差」は、それは発展途上国で見られるような「飢餓」「貧困」と先進国との比較で表現される格差とその質は違うように思う。
もちろん「困窮の切実さ」に差が有るということではない。(関連エントリー:「感覚遊び3」)
現に自殺者がいて、餓死者がいて、孤独死者もいる。
下流といわれる人でさえその多くは
奪えば生きることができても、奪うことはできない。
子供の教育を投げ出せば生きることはできても、それはできない。
ゴミをあさって食べ物を見つければ命をつなぐことはできても、それはできない。
なにもかも捨てて、ただ生きることができない。


が、前者は生きることが物理的に困難であるのに対し、後者は生きることが精神的に困難なのだと言う違いはあるのだと思う。
いったい何に囚われているのかを知ろうとするのは無駄とは思えない。


以前、南アフリカの戦争請負ビジネスについてのエントリーを書いたことがあるhttp://hellomate.tea-nifty.com/log001/2005/06/post_454a.html


背景には「アパルトヘイト」廃止後の職を失った白人たちの困窮があるようだ。
南アフリカではこれまで虐げられてきた黒人の復権の影で、それまで定職を持ち文化的な生活を送ってきた白人たちの失業・困窮がある。
ここに出てきた白人たちはある程度まともな住まいに住んでいるところを見ると、まだまだバラックのようなところに住む多くの黒人の困窮よりはましだとは思うのだが、これまでの生活との格差からみれば別の意味での「困窮」はやはり「深刻」なのだろう。
同様に経済生活に組み込まれ囚われた私には想像可能である。
貨幣による経済生活からもともと疎外された人々と、どっぷり組み込まれた人々とではそれを絶対的な「持つ持たない」だけでその「度合い」を比較する事もできない。
「生きるため」といいながら「なりふり構わぬ」ものというより「経済生活を成り立たせる為」に「命」をリスクとしてかけているような印象もあり、その部分にも思うところはあるが、本当のとことは分からないのでそれは今は触れない。



このときは触れなかったので「今」その思うところを少しばかり触れてみたい。
ここで登場する白人の戦争請負人のように、「貨幣により裏打ちされた経済生活」が成り立たないことで命までもかけてしまうのがシステムに組み込まれた人の「困窮」である。


同じ南アフリカで「何をしても」困窮から逃れられずに「飢餓」「貧困」により生存を脅かされている下層の黒人コミュニティーの「困窮」とはやはり質が違う。
黒人コミュニティーの貧困は嫌でも認識できても、システムにより生み出される困窮の本質はなかなか掴みづらい。
つまり先述の「前提を受け入れざるを得ないと観念している」(と思われる)少なからずの日本人の「困窮感」(差を格差たらしめる観念)は南アフリカで傭兵としてイラクに旅立った白人の「困窮」を思わせる。


この南アフリカのケースではその「困窮」を糧に回っているのが戦争請負ビジネスであり、その事実性がまたそのシステムをさらに強化している。


戦争請負ビジネスを取り巻く現実が、たとえ私から見れば忌むべき現実であっても、それを当たり前の現実だと観念している人たちがいて、そこに原理的な資本主義の「美しさ」を見出す者もまた確かに存在しているのである。


「金さえあればとりあえずすべての問題は解決できる」と、それにより力を増す「金が全てである」に潜む美学と、これら戦争請負ビジネスに「美しさ」を見出すこととの「差異」を「現実」という前提に拘束された環境の中で認識するの難しいことだと思う。