脱価値的な思考

時に脱価値的な思考を合理的だという。


「人の思い」や「情」は合理的思考を邪魔し、整合性を失わせる。


事実は事実そのものであることではじめて整合的だからである。


人に殴られて「痛い」と思えばそれだけで現実との整合性は失われる。
「痛くない」と我慢しても整合性は失われる。
「何も感じない」といっても整合性は失われる。
「・・・」な境地をだけがかろうじて「整合性」を維持することができる。


何かを問題として捉えることすらも脱価値的ではない。
そもそも、完全に整合的な現実に解決すべき問題などは何も無いのだから。


言うべきことすらも無いはずである。


何かに「差」を見出してしまうこと(認識)も
その何かを構成してしまうこと(概念)も
何らかの働きかけをしてしまうこと(行為)も
いずれも、「現実」に「非整合性」をもたらす価値的な営みである。


貶められようが、虐げられようが、略奪されようが、殺されようがそれら一切に関知しないことが「脱価値的」な思考の「生の姿」である。


何らかの「問題」に思考をめぐらせているときに努々「脱価値的」に「合理的」な思考をしているなどと勘違いしないことだ。


人は生きている、ただそれだけの事で既に「不合理」を身にまとっているという事には自覚的であったほうがいい。