情と理、私と公

松岡農相の「疑惑」のニュースには注目していたけれど、このような悲劇を迎えるとは思わなかった。
ご冥福をお祈りいたします。


今後、亡くなった故人への追求や非難はし難くなるだろうなぁ。
情の部分と理の部分、
私の部分と公の部分、
が対立してしまうのはこんな時だよな。


親族の方、立場的,党派的に近しい人、利益の代表者として彼を支えた地元の支持者、松岡氏の人柄を知る人にとって「人の情」として「追求や非難」を「死者に鞭打つもの」として映るのは致しかたない。
しかし、それをもって理や公の部分を「免責」するというわけにも行かない。


さてさて、前者の立場の人々の持つ人として当然の「情」の部分を「理」や「公」によりただ葬り去る事無く,社会性を左右する「公」の部分を「情」や「私」によりうやむやにしないためにはどのような枠組み,切り分けで捉えるのが妥当なのだろう。


このあたりを混ぜこぜにすると変な議論になってしまいそう。


このような形で「解決」を図らざるを得ない「構造」とはなんなのだろう。


松岡氏には「死」に相当する「切実と感じさせる現実との葛藤」があったのだろう。
影響力を行使して、支持してくれる有権者の期待に応える為には政治家は「政治資金」という切実な今の政治の現実に直面しなければいけない。。


このような「切実な現実」をどのように無くしていけばいいのだろう。


「美しい日本」という政策があったとしたら、まさにこのような問題そのものの事なのだろうと思うのだけど・・・今はそんな皮肉もただ空しいだけ。