「国」は責任を取らない。

年金問題のような問題は起きてしまうと正常な状態への「原状回復」は難しいだろうと思う。
仮に理屈として「消えた年金」を調べる方法が見つかっても、現実的にはそこに労力と経費をつぎ込まねばその理屈を現実化することもできそうもない。


耐震偽装のときもそうだし、銀行の不良債権問題もそうだった。
さらに広げて考えれば「公害」もそうだし、今後に控える「環境問題」もきっとそうだ。
ついでに言えば「戦争」もそうだろうけど、「起きてはならない事」は起きた時点で、すでに「負債」になっている。(つまりは「取り返しがつかない」の言葉の通り)


個人ではなく「国」とか「公」なものが関わる問題は特にそうだろう。
「国」が責任を取るということは「政治家」が責任を取るということでも、「官僚」が責任を取るということでもなく、その責任はすべて国民の責任として戻ってくる。
もしこれが「公」ならばその「公」に関わる成員の責任として戻ってくる。


もちろん、政治家や官僚に責任を問うことはできるが、それはあくまで「象徴的」「個人的」な限定的なものものでしかありえず、現実問題として不正に見合う責任(原状回復)を担わせることなどはできない。


概念として「国」が存在し、システムとして機能していたとしても責任を帰属できる第3者のような実体がそこにあるわけでもない。


「国」を国にしているのも、「国」をシステムにしているのも、その領域を概念的に(狭義には地理的)に共有している「人」に他ならないのだろうから、そこに負債が回ってくるという「ありかた」からは逃れられそうにない。


負債をいかに納得の行く形で分配していくか、
今後の負債の発生をいかに防ぐか、
少しでも「負債」を回収できないか(杜撰すぎるとその望みもなさそうだが)
そのぐらいしかなさそうだ。


いかにも、不合理だ。


でも、それは起こる。


法を破ったわけでも、ルールを破ったわけでもないのだから「政治家でも官僚でもない俺は悪くない」と言ってももちろん良いし、静観していても咎められるいわれも無いのだが、それは「それが起こる」「負債がある」ということにはなんら影響を与えない。


法制化できず、ルール化できず「捉えどころ」のない「信頼」とか「モラル」とかといったあまり合理的には扱えない「何か」がなければこの「不合理」や「損失」は起こり続けるのだろうなぁなんて思う。


こればっかりは(現政府のように)強制してどうなるものでもなく、個人のうちに(偶然?)意思として発生するかしないかしかないのかも知れないけど・・・。


「政治家」も「官僚」も「関係者」も(実質的)「責任」は取らない(現実的に取れない)。
システムをどうこうするにしても、最終的に責任を取るのはそこに関わる自分を含めた「人」(国民)であるということを骨身に刻むところからはじめるしかないのだろうなぁ・・・きっと。