民族意識と個人(memo)

バージニア工科大学での銃乱射事件に関連したニュースを見ていると、犯人が韓国国籍を有していた事が大きな話題になっているようだったのでweb上の中央日報朝鮮日報東亜日報あたりを眺めてみた。
それを見ると、韓国社会は「対韓感情の悪化」「海外在住の韓国人および韓国系移民への憎悪」「韓米関係の悪化」などが起きるのではないかとかなり危惧しているようだ。


しかし、ナショナリズムが沈静化し、9.11直後に見られたような異常状態からある程度正常化してきた今のアメリカならこのような問題は顕著には表れないのではないかと思う。(希望的観測も含んでいるかもしれないが)


韓国籍を有しているとはいえグリーンカード(永住権)を持ち、小学校からアメリカで育った「犯人」を韓国社会が自国の問題として大きく捉えるのは、やはりそこに「民族意識」が強く作用している事の現れだと思う。


その一方でアメリカ市民が、永住権を持ちアメリカに住む彼の犯罪を「個人」の問題、「社会環境」の問題として扱い、韓国系、韓国籍であるという属性にその矛先を向けることなく冷静に処理するとしたならば、それをナショナリズム(アメリカで対外的な民族意識というのも変なので)で受け取らなかったということを意味すると思う。


ここにあるのは
韓国社会が民族意識的「関わり」を重大なこととして認識し、その前提から予想される不利益を回避するには、その対象である相手の非ナショナリズム的な「属性から切り離された観念」に期待することになるという非対称な構図。


んー だからなんだ?
これ微妙に違うな。


とりあえずメモ。