やり場の無い怒り・悲しみ
アメリカのバージニア工科大学で起きた銃乱射事件のニュースを見ていた。
画像に登場する人達のやり場のない怒り、悲しみがそこにある。
でも、この事件を引起したもっとも非難されるべき犯人はもうそこにはいない。
どこに、その怒りをぶつけたらいいのか。
そのぶつける矛先が見つからない。
矛先が見つからないままに「怒り」と「悲しみ」といった「切実さ」だけがそこに取り残される。
そこにある「切実さ」は少しでも想像力のある者ならばそれを感じないものはいないだろう。
それ程、明らかで、不合理な出来事だと思う。
その「切実さ」を少しでも解消すべく、「大学の対応」「警察の対応」「銃社会」・・・へと非難の矛先をめぐらせどこかにこの「切実さ」を静める「因」を捜し求める。
このやり場の無い「切実さ」の矛先が9.11で見せてしまったような「人種問題」や「報復」「恐怖」「不信」へと繋がらない事を願うばかりだ。
そのイラクのニュースに目を向ければ「バグダットで爆弾テロで160人死亡」とある。
これも9.11以降に起きた様々な「やり場の無い怒り・悲しみ」がもたらした「切実さ」を回収しきれずにその切実さを誤った矛先に向けてしまった人たちにより引起された悲劇なのだろう。
そして、またその悲劇が引起す不合理な「切実さ」を収めるべくさらに新たな非難と報復の矛先を捜し求めていくのだろうか?
この人の心に芽生える「切実さ」はいずれも真実だろう。
それが解消されない「不合理」も。
そして、それら不合理を無理やり解消すべく生み出される「悪魔の概念」に身を任せてしまえば「連鎖的悲劇」を生むということもまた真実であろう。
ただ、それら様々な不合理としか思えない真実をどのように受け止めるかだけは人に任せられている。
どのように受け止めようと人以外の何物も咎めやしない。
「超越的な何か」が在ったとしても、それははその「結果」によって応えるだけであり、そして、それこそが超越的な何かが超越でありえる唯一確かな存在根拠なのだと思う。
昨日、やり場の無い怒り・悲しみを私にもたらした銃撃事件で凶弾に倒れた長崎市長は「その連鎖を断ち切るべく」身をささげた一人だった。
悔しいが、そのやり場の無い怒り・悲しみがもたらす「切実さ」を解消すべく、闇雲に非難の矛先をどこかに向ける訳にも行くまい。
「不合理としか思えない真実をどのように受け止めるべきなのか」に向ける以外なさそうだ。
不合理により命を落とされた全ての方のご冥福を心よりお祈りいたします。