背後から撃つ者と背後に隠れる者



長崎市長銃撃事件

また、嫌な事件が起きた。


この事件、
石井紘基衆院議員の刺殺を思い出す。
加藤紘一議員の自宅放火事件も頭をよぎる。


大きな「背後」を予期させる何かが見え隠れする中で、個人的な「ささいな」弱すぎる「動機」に矮小化され闇に消えていく事件。


今回も、そのような終り方をしてしまうのだろうか。
そんな気配を感じつつも、それでも「このようなことは言語道断」「徹底究明が必要」だと「決め付け」続けなければならない。


「現実」には何時の時代も多かれ少なかれこのような事件はあるだろうと思う。
しかし、その「受け取り方」の違いには将来を指し示す何かがあるように思う。


その「事実」を「そんな事があってはいけない」と多くの人に観念されるか、「それが現実」と多くの人に諦念と共にシニカルに観念されるかの違い。
そのような「違い」こそが「秩序」や「治安」そのものなのかもしれないと言うようなことを最近よく考える。


それは「ベクトル」を意味し、「これから向かう先」がどこに向いているかを暗示し、それを皮膚感覚で感じる「仕方」がすなわち「秩序・治安の状態」なのではないかと・・・。


あって欲しい「世の中」がありながら、それを「現実」の強度に押され口をつぐまざるを得ない時代の何と息苦しい事か。


同じ「現実」は「現実」でも、そこに「望まれる世の中」が生きている社会と「諦念」に満たされた社会。


「暴力による解決はあってはいけない」と言う「望ましさ」としてはあたりまえの事から、現実を前にして「眩しくて」「辛くて」目をそらしたくなるとしたら、その今ここにある「現実」は益々「望み」から離れ、将来のさらなる望ましくない「現実」を呼び込むことになるだろう・・・と思う。


「現実」は「理想」とともに、「理想」は「現実」と共にあるって欲しい・・・と強く感じる。


長崎市長には何としても助かってもらいたい。
切実に、心より、そう祈っています。