fairである事



私はfairnessという言葉が今でも好きだ。
しかし、私自身がそうであるという事は永久にありえないと思っている。


それは、そちらを向いて生きていきたいということであり、寄り道をしても、そちらの方向を見失いたくはないというベクトルの表明でしかない。


私はまさにfairnessを体現する「実体である」ことなど望みもしないし、そのように思う事があったとしたら、その時点で既にfairnessは失われているはずだ。
ただ、そちらを向いた「ベクトル」は維持していたい。
そして本当は、社会においてもfairnessそのものを体現(実現)する・しないなんてことではなく、どんなにそこに矛盾があろうとも、実現から遠かろうとも、ただただ夫々が夫々の仕方でその「ベクトル」を共有しあう「状態」があれば、それがもっともfairnessな状態なんじゃないかと思うし、そんな状態が実現すればいいと思う。
なぜなら,そのような状態があってこそ個別の「より現実的なfairness」もまた可能になるのではないかと思うからだ。




もし、fairであろうとする事をパーフェクトに求めようとするならば、あらゆる主観を廃し、あらゆる価値観から距離をおかねばなるまい。
ただ、そのような「立場」は、もはや「人」の住まう場所ではないような気がする。
そこには到達できないだろうし、仮にその場所に「ある」ことが可能だとしてもそこに「ある」ことが「人」として望ましい事だとも思わない。


fairnessをそのまま体現する何かがあったとしたならば、恐らくそれは何の人間味も無い、無機質でmachineのような「全てが無意味」に回収されてしまうのでは無いかと思う。
fairnessを望む思いさえもまた「価値」であるはずなのだ。


まだまだ、私には「人」である事への未練がある。


現実の私はきっと何らかの価値に肩入れする。いやそうしてきたし,今もそうである。
身近に不幸があれば心動かされ、その動かされる思いに荷担する。
それもまたfairness同様、私にとっては大事な捨て難い価値だから。
ただ,その事実(矛盾)に整合性を付けるためにfairnessやあるいはその大事な価値を切り捨てると言うわけには行かない。
その荷担する思いとfairnessの間で悩み、その悩みの中で、無理をして少しばかりのfairnessを実現する事でその「ベクトル」を確認する。
それが少しも実現しなければ「望ましくない」という思いを捨てずにその痛みや罰を引き受ける事で「ベクトル」を確認する。


そうする事が妥当である理由など無いし、その是非も測り様がない。
そうあろうとする事が望ましいと「人である」私の「主観」が私にそう言うからそれに従いたいだけで、その「根本」に合理的な理窟なんてものはありはしない。(たとえあったとしても私には知る術もない)