意識させられる事

それまで意識もしなかった概念に出会ってしまう事は時に困った事だなと思う事がある。
その概念に付きまとわれると言ったらいいだろうか。
その概念を知った事で、したくなくともそれを「意識」させられる。


たとえば、もともと全く何の偏見も持ち合わせていなかったのに、
「そのような偏見が世の中には有るのだ」
と知ったり、知らされたりした時点でその気は無いのにそれが意識に刻み付けられてしまう。
刻み付けられた時点で、それ以前の私とは明らかに「違う私」に生まれ変わってしまう。
しかも、不可逆的に。
その後に、偏見があるという対象に接する事は以前のように「無垢」であるというわけにも行かない。
「そんな考えは馬鹿げてる」と思っても、そう思うこと自体が以前とは違う「意識」であり「記憶」である。
もし、以前のように自然に接する事が出来ない事が誰かにとって「理不尽」であるとしたならば,その時点で、私の中に「偏見」の兆しが住み着いたことになるともいえる。


それが私の中に「有るほうがいいのか」,「無いほうがいいのか」といえば無い方がいいんだけど・・・表現は何とか出来ても、意識の部分については理窟でどうにかなるものじゃない。


偏見のような重いテーマを想定しなくても、好きな異性を好きだと意識してしまった後の不可逆性は誰しも青春時代には経験があることだろう。
「意識過剰だ」なんて余計な事を友達に言われようものなら益々意識から離れなくなったりするものだ。


横道にそれたが,有る意味,これは私が世界を一つ知ったということなのだろうが、それで世界を一つ解明したというよりも,世界の迷路に迷い込むようなイメージがある。


「知る」ということには、なんかそんなところがある。
知らないことの不都合があるのと同時に、知ることにより生み出される不都合も有る。