「隙間」を装う

不可避的に「隙間」が矛盾を生むとい言うことはあるとは思うのだけれど、この「隙間」は利用されやすいよなぁーとも思う。
「必要悪」でも何でもない(多くの人がそこに妥当性を全く感じていないような,そして本人ですら本当は「悪」としか思っていないような)ただの「悪」をあたかも不可避な隙間から生ずる矛盾を装って自己正当化の為に強弁して利用するケースもあるよなぁ。

正直言って私は上のエントリーの「必要悪」がそうであるように、立ち位置は違っても実は根底にある認識は共有しているというケースは結構多いのではないかと疑っている。
「認識の違い」と言う言葉は「証明」が出来ないので「自説を押し通す」には便利な言葉で、実際には認識を共有しているのに全く接点が無いかのように単にそう装ってしまうケースって結構多いんじゃなかろうか?

言葉以前の概念においては概ね共有していて多くの事柄にはこの是非が適合的だと感じているにも拘わらず、ある具体的な特異な事態を、特異な環境,特異な立場を前提に、正当化の為に意識的に恣意的な「切り取り方」をして「認識は共有出来ない」を演じているだけなんじゃねぇーのなんて思う事がある。