必要悪

「必要悪」という言葉があるけれども、これは「悪」の認識が前提となっている。
「必要悪」を「善」とは言いにくいと思う。


このようなケースの場合、裏を返すと「必要悪」を容認する人も否定する人も、「必要悪」という言葉を使っている限り「善悪」の認識は共有しているのだろう。


概ねこれら善悪基準が多くの他の事態には十分有効で適合的であるから「共有」されているのだと思うけど、(限界ゆえ起こる非可避な)切り取りの不十分さによって必ずしも全てに適合的でない、つまり「隙間」があるから現実に直面した時には不可避に「例外」というのは出てきてしまうことはあると思う。
「例外」である事を多くの人もまた暗黙の内にその妥当性認めざるを得ない可能性の話。


ここで、「必要悪」を「善」(もしくは是)として公言してしまえば「ある概念を悪とする事で十分有効な他の事態」にも「善」を宣言することになってしまうのでそうすることはできないというややこしさがある。


この善悪基準を共有するものにとって、「必要悪」は「悪」の範疇を出る事ができない「非公式」の「是」であって、決して「善」にもなれないし、あくまで「日陰者」でなければならない。
もし是か非かを問われれば「非」と答えるしかないもの。


「それを言っちゃおしまいよ」というのはこんな「隙間」の可能性の内にあるような気がする。