蛇足

人の行為に責任を問えるのは、人には意思がありインプットとアウトプット(行為)に決定的な法則性がなく様々なアウトプット(行為)の可能性を認めるからであろう。
さもなくば、物理現象同様全ての行為は決定済みでありそこに「是非」を問う必然性はない。(宗教はこのあたりにアクロバティックな答えを用意するが・・・)

しかし、人のインプットとアウトプットに法則性に近い「傾向」が経験的に観測されるとき、その意思の可能性は限定的であるとする事に妥当性があるであろうか?
そこに妥当性を認めず法則性を完全否定すれば人は完全に「自由」であると同時に、全ての行為に責任を問われるのだろう。
そこに限定的に妥当性を認めれば人は限定的に「自由」であり,限定的に行為の責任を問われるのだろう。
全面的に妥当性を認めれば人は全く「自由」ではなく、いかなる行為の責任をも問われることは無いのだろう。