例えば

雨の降る中で車がスリップして前に渋滞で止まっていた車に衝突してその車に乗っていた人が亡くなってしまったとする。

雨が降っていなければ事故は起きなかっただろう。
渋滞していなければ事故は起こらなかっただろう。
車が前に止まっていなければ事故は起きなかっただろう。
道路のミューが高ければ事故は起きなかったであろう。
運転手が出掛けに奥さんと喧嘩をしなかったら事故も起こらなかったろう。
もう一つ手前の信号が赤だったら事故は起こらなかったろう。
全ての偶然的要素もまたそれがなければ事故は起こらなかっただろう。

責任の帰属を前提にした常識の範疇では、これらは全て「言い訳」もしくは「屁理屈」とされてしまうであろうが、その常識という前提を抜きに、この事故の起きた経緯・メカニズムを考えたならば全ては立派な「因」である。
「責任の帰属」を前提とした「原因」は「前方不注意」でしかないとされるかもしれないが実際にはどれか一つが欠けただけでもこの時ここで事故は起こらなかった可能性は高い。

本当は「雨が降っている日は車を運転してはいけない」というルールがあってもいいし
「道路は全て摩擦係数〜以上なければいけない」というルールがあってもいいし
「運転する前は奥さんと喧嘩してはいけない」というルールがあってもいい

実際にそれらのルールが施行されれば確実に事故は減るだろう。
なぜならばこれらは間違いなく事故の「因」となりえたからである。
もっとも効果のあるルールは車を運転してはいけないというルールだろう。
これなどは自動車事故を減らすという目的を達成する手段として絶大な効果をあげるだろう。

でも、人の都合で定めた法や慣習に合意があるからそのようには考えない。
その「人の都合」で事故の原因でありながら原因として抽出されず,責任として問われないまま捨て去られるものの方が圧倒的に多いはず。

そして、「責任帰属」とそれに連なる「懲罰」を考慮した時、それらをどう扱うかの闇値は多分に恣意的で抽象的で「価値依存的」な要素・理由により「決定」されているように思う。

事故を無くす為に価値を廃した「分析過程」を採用する事は可能で、そこに労力を注ぐ事は重要な事だが、その原因から何を取り出すかは人に委ねられている。

そんな「明確」ではない「バランス」の中で生きているのが私たちなのだろう。